1歩

 

 

薄橙色の光に誘われて外に出ると雨が上がっていた。この時間帯の空は色が多い。雨のシャワーに洗われた世界も気持ち良い。

 

水曜日から。

 

少し寝るタイミングを逃したがなんとか30分前には起きた。外的時間と無関係に生活リズムを作るのは難しいが、本日から1週間はそんな生活になる。6時起き生活を目指す。達成率はどれくらいになるだろうか。

 

仕事は終わり際30分ほど暇だったため年下の先輩と、好きな上司(先生と内部で呼んでいる)と雑談をした。先生が、「自分は全方面に几帳面ではないが、気になるところはほんと気になる」みたいな話から、僕の部屋が綺麗そうだと言われ、そんなことは全くないと答えた。だいたい何処にどんな本が置かれているかは把握しているがそんな問題でもない。しかし、要らないとはいえ、雑談はしたらしたで楽しいな。自分の中の見解がするする言語化される。まぁ無理してするものでもない。

 

昼はちょうど雨が上がっていたため空中庭園の方へ。弁当箱が2段になっていて下がおかず、上がご飯なのだが、一段目を持ち上げたときに目玉焼きが上段の底にくっついていて落としてしまった。残念。拾う。食べ終わりそうになった頃、修行少女2人組がやってきた。いつか書いた蔓が絡まるだろう鉄の骨組みをジャングルジムに見立てて修行している少女たち。ちょうど真下のベンチで食べていたから早々に撤退。花の名札でシャトーブリアンみたいなのを見たが急いでいたため見逃した。

 

歩いていると、木に咲いた平面状の白い花を見つけた。ここ何日かどんな花なのだろうと気になっていたから嬉しくなる。花水木。

 

お刺身とビールを買って帰り、着替えてレタスとブロッコリースプラウトをちぎりお風呂に入る。緩みの映画鑑賞日。今回は「トイレのピエタ」にした。なかなか面白かった。男女問わずお尻が良く出てくる映画。

 

ラッドの野田さんが主演。主人公にガンが見つかり余命○○みたいなありがちなアレだが、感動させるような描写はあまりなく、割と淡々としているところに現実味がある。絵描きを志望していて才能もあった(らしい)主人公が最後にトイレに絵を描いて亡くなるのだが、絵を描いている姿をリリーフランキーさんが撮っていて、俺、生きてるよ、みたいな台詞が良かったな。生きているというか存在証明なのだろうな。

 

そうして、お酒の効用なのか映画の効用なのか、他人との境界線も緩ませる。他人に言葉を投げて相手の解釈に委ねることはまさに越境の挙動に違いない。この話はまた後で。

 

酔い明けの日は飲食の嗜好が変わる。コーラを飲んで、うどんを食べ、夜にはレトルトカレーを食べた。平常日にはコーラもカレーも欲さない。カレーってなんとなく贅沢というか好物とされていることが多いような気がするが、僕にはそういうのはないらしい。月1回でも多いくらいではなかろうか。

 

美学についてあと1冊は読書時間に入れておきたいと思い、ポチろうかとインターネットに潜る。講談社学術文庫に「美学」というのがあり、説明文でとても面白そう。人の認識には「悟性的認識」と「感性的認識」があり、前者を扱うのが論理学で後者が美学の範疇であるとのこと。これを読んで、感性的認識って言語で考察できるものなのか、突き詰めれば好き、嫌いになるのではと思った。

 

講談社学術文庫であれば近所の古書店にあるかもと、冒頭の薄橙色の光の中向かう。思い立って10分くらいに古書店がある環境ってとても贅沢だ。引っ越しすることがあれば優先事項としたいくらい。

 

結局なかったのだが、もっと面白そうな本が見つかる。僕は美を芸術(作品)からのアプローチではなく哲学方面からのそれを読みたいのだなと自覚し、芸術棚ではなく哲学棚を見て見た。ストレートに美学はなかったが、「媒体性の現象学」というのがあり、「はじめに」のところで、現象学は文化を統一的に把握することを目指しているというフレーズ。メディア=媒体の話も読んだところだし、そろそろ手を出すやつ。

 

「世界の不可視性、あるいは眼差しから退くもの」で、文化としての視覚優位は衰退したと書かれていた。優位になったのは内的感覚みたいなことはまぁ分かるが、もう1つ「言語」が出てきて、おっと思う。捉えた世界を言語として記述するって、たしかに感性的世界の1つの表現というか、ある中立性で言えば唯一ともいえるなと。他の媒体で捉えたとき、表現者、記録者の色が付いてしまうし、色が付くことが芸術性そのもの。

 

世界の不可視性と現象であることが両立するのも面白いよな。現象であるということは「知覚者」の概念とセットだと思われるが、見えないものを捉えるのは何か。ここでも言葉が役立ちそう。確かに、自分の感じは言葉にすることで現象化される訳で。

 

いやはや、いい出会いである。

 

出会いと言えば好きな人のことだが、自分に良い変化をもたらしたことは理由ではなく結果であって、原因は別、でもないのか。原因と結果は混ざることもある。意識が光子であるところからもってくると、まなざしとしての意識がとても心地よい波長だったということなのかなと感性的認識の言語化。これだと双方向である必要はない。というかもともと必要ないか。境界線ももっと曖昧にして良いのかもしれない。特に許されている気はしないが禁止されている気もしない。まぁ無駄にどきどきするくらいなら越境するなよとおも思うが。

 

感じは言語化することでしか現象にならんのかもしれんな、という手触り。

 

うわ、ちょっと時間調整ミスった。明日は6時起きではなく6時半起きにしよう。

 

 

では、おやすみなさい。

 

良い夢を。