救済

 

 

なんだか少しずつ認識が更新されているような気がする。ここでいう認識は知識でも思考でもなくて、むしろ知覚・感得されるベースになる自分の前提。ここを説明するのはやたら難しい。だって、前提が通底してなければ異星人のやり取りになる。

 

分かるように頑張って書くなら、プログラミング言語とか外国語を習得したとき、そこには言語の前にそれらを読み取ることができる集約された「感じ取る器官」が形成されている訳で、これを認識としている。

 

ほんと、あきらかに昨日と変わっている。

 

僕が大人観で嫌だったのは、こういう意味で認識の更新を止めること。普通に考えて、生きているだけで世界は拡がっていくのに閉じる意味が分からなかった。認識の更新を辞めると、あとは善悪で切り分けることになるのだろうな。そんなざっくりなのはつまらない。

 

新しい知見みたいなのがしんどいというのは辞めたから起こっている感覚であって、善悪が判別しない世界の収集って楽しかったのでは。いや、それ以前の、ただ生きる、か。

 

まだ自分が判然としない大学時代に友人から、「お前の考え方はいわゆる、『中庸』っぽいな」と言われたことが残っている。たぶんここでの語義は中立みたいなものだろうなぁとは思わなくもないが、中庸と中立は違う。

 

そうして、発案者なのか権威なのかは定かではないが、そろそろモンテーニュさんの「エセ―」かなと思い、kindle読み放題で調べてみると流行の「超訳」本があった。少し読んでみたのだが、あんまりよろしくない。流動食を食べているみたいな感じになる。

 

まぁ、はしがきで徒然草とも通じていると小林秀雄が評していたとか、本文の「ありのままの自分」はありえないというフレーズで、たしかに自分の立ち位置と近そうではある。無常観って、外の移ろいだけのはずがないのだから、自分が規定された値で留まっているはずもなく。

 

これが人生の絶望であり醍醐味でもある。キルケゴールさんもなんとなく好きになってきた。宗教という緩衝材。自己が自己である絶望って、割と現代的よな。むらむらする自分だったり真面目な自分だったり揺れ動くのに、どこかで停止させようとするから無理が生じる。

 

 

さておき。

本日は割と真面目に語りたい気分。

 

村上本から。

 

海辺のカフカ」って記号の話だ。ジョニーウォーカーカーネルサンダースはもちろん、ナカタさんも記号的な存在。人間としての不合理という記号にできない部分(記憶とか)が冒頭の事件でごっそり抜かれたことにより、人という器を持った害がない人物になっている。そりゃあ嫌われるべくもない。だって、自分の存在を脅かさないのだから。

 

全体的に記号と象徴がテーマなのかもしれない。記号という文脈だと騎士団長とかねじまき鳥とかで、象徴だと宗教観が出てくる。ちなみに、次に読むのは色彩を持たないつくる君。

 

そうして、一応の専門分野の話。

 

常識の言語化法律学は良いのだが、もう少し細かく書いておきたい。

専門用語は使わないつもり。Pythonクローニングの本、おそらく当人が専門用語を使っている意識もないから、ほんとよく分からないのだが、本来は分かる人の中で共有できるのが専門分野の話であることも分かる。でも僕は自分の語彙を習慣としてないからそういうことはしない。

 

凄く素朴なところから。法律を創ってきた人というのは、文化人類学でいうところのヒエラルキーが上位のエリート層ではあるのだが、文化という枠から離れたところでルールはあり得ないから、当たり前が前提にある。

 

こう考えると、枠内であくせくするという学問の宿命が付着している訳だが、人が外の物事を判断する原型にもっとも近いと捉えている。

 

心理学とか行動経済学も人の傾向的な本質には近いのだろうが、あくまで性質の領域であって、判断の領域ではない。

 

物事を審判する素朴な感覚が法律という道具に昇華されたのだろうなという感じ。

 

これの証左が、何かの裁判で、ある犯罪者の罪が軽すぎるって憤るところ。長さが違っていても同じものさしでしか人は判断できないから、法的判断は素朴な判断ととても近いのだなとなる。

 

同じく学問的観測的見地としての宇宙にそれはちゃうだろうとはならないし。

 

全然それっぽい話を書いていないから、ちょっとだけそれっぽい話も。

 

因果関係という概念。

法律では不法行為と、刑法の犯罪行為とその結果との間にある原因と結果の関係で良く出てくる。

 

この単語だと大げさになるが、これこそ辺り前の感覚なのだろうなと想う次第。ここにあるのは物理現象としての法則ではなく、その中で有意な原因と結果がどこにあるかを一定のものさしで判断すること。

 

こんなの誰でもやっている。

 

ものさしをきちんと言語として説明できるかはともかく、一定のモノサシによって物事を判断している時点で、非常識だとしても常識的判断だったり。

 

一定の事実があれば、一定の結果がアウトプットされるという原因と結果の捉え方がこれ。

物理的な現象の移ろいとなぞらえているようで、とても恣意的。

 

そういえば、言語として説明できるかどうか。

 

僕は言語を事実としていないが、自分が判断していることくらいは言語化して説明はできる。なんでそうしているのかって聞かれて怒ってしまう人は、何かの権威に依存して自分で生きてないからなのだろうな。こんな話し合いなぞできたことはないけど。

 

僕の原初のルールの神様は母親で、その後は学校の先生だったり職場だったりするのだが、当人も特にそのルールの意味を説明できない。人の素朴ってこんなものだが、こういうのが精緻化されて法律になっていると考えるとなかなかの趣がある。

 

僕は自分にも特に求めないから、人にはなんにも求めていないで良くなった。

 

モンテーニュさん曰く自分を取り繕うからしんどいことになるとのことだが、ここまで自分を赦すのはとても大変だから、外界に救済を求めることになるのだろうなという感じ。

 

この世界の楽しさ、僕しか味わえなくてなんだか申し訳ない。

この感覚は共有もお裾分けもできないし。

 

でも、念のため。

この世界、進歩している訳ではなく、うろついているだけ。

 

 

はい、おやすみなさい。

 

良い夢を。