意味の境界領域

 

 

 

何もかもが難しい。人の理解できることが認識のちょっと外側にあるのは不可視性として認識に含まれているのかもしれない。

 

 

6時4分に目が覚める。寝不足感があったが二度寝できそうもなく、少しごろごろして起床。歯を磨きひげをそり、ブラックコーヒーと牛乳のカフェオレと水を用意し検温しながらチョコを2かけら。36度6分と低めの平熱。確実に仕事日よりは早く活動し出した。

 

朝とも昼ともつかない時間に醤油ラーメン(インスタント)に新玉ねぎと人参を加え(温玉もレンジで作ったが入れ忘れた)、納豆ご飯と食べた。なんとも独り者の男っぽいご飯。夜はベビーリーフに入れ忘れた温玉を乗せたサラダ、大根のゆかり浅漬け、鶏もも肉を塩コショウ、レモン汁、酒、ほんとはにんにくにしたかったが、にんにくチューブは常備していなくて、和からしで代用、で下味をつけたソテー。からし感は全くなかったが、よく分からない美味しさだった。

 

昼寝は少ししてしまったが本日は起きておくことが主眼だったため、本はそこそこしか読んでいない。昼間に別分野の本はあまり読まないようにしているがあまりに気になったため、媒体性の現象学の不可視性のところは読み切った。ついでに現象学でググったらPDFの訳文の論文21頁を見つけてデスクトップに保存した。明日読もう。iPadだとPDFに書き込みができるという噂を見つけて気になっている。頭に書き込むから要らないとも言えるが線引いたりした方が分かり易いのは確か。

 

3周くらい読んだが歯ごたえがあり過ぎて咀嚼できていない。現象するという動詞が出てきて、カッコ書きで、思念する、理解するとあったから、思念・理解の対象となる事柄、あるいは行為そのものを探求する学問なのかなと想像。こういうこと考えて学問を創ってしまうような人は何処かがズレている変態というか変人なのだろうな。という感じ。

 

ベケットゴドーを待ちながらがしれっと内容も語られず出てきて、個人的にあのベケットなのかと思った。誰かの夢の中で神様になっていた人物。芸術の中でこの戯曲はどういう立ち位置なのだろう。気になる。

 

見ること=まなざしなのだろうが、どうも広い意味の見ることは目だけに依存していないようだ。というところから可視性と不可視性が出てくるのだが、ここがとても難しい。人は「自分が見ていないものさえ見ている」というフレーズからすると、見た像として自覚されているもの以外も対象として捉えているということなのか。

 

最近の思考項目にも出てきた、人は自分のことが1番分からないという文脈で面白いなと思ったのが、感覚の二重性みたいなこと、人の体は外の対象を認識するとき意識されないが、体として捉えているという縛りがあるということ。「疲れているとき自分の体は知らないものになる」とか、某歌詞の「熱が出たりすると気づくんだー」みたいなところ。あと、見ることは見られることで、触ることは触られることという常に反作用があるみたいなのもなかなか。人は他者の中に自分のドッペルゲンガーを見出すみたいなのもあった。

 

可視性と不可視性には境界があって、境界領域では自分が見ていないものを、、、という話で、浸透性という概念も出てくる。この浸透性のイメージとしては、可視性と不可視性のどちらにも侵入しているというか含まれているというか境界が壁にならないということ。なんというか言葉の意味の外延も気にしていかないといけないなと思う。

 

やはりまとまってない。メルロポンティさん曰く、「哲学は言葉で(対象)を見えるようにする」とのことで、昨日書いていたところにも近いのだな。哲学はうごうごした非言語領域を言葉で取り分けて見えるようにするものであり、言葉自体の機能とも重なる。

 

「語りには沈黙も含まれるのと同様に、見ることには盲目も含まれる」

 

 

さておき。

 

美学史では感情に訴えるものを芸術としていたという話が出てきた。そこから理性と感性を分節したという話だったようだが、個人的には感情と感性って微妙にニュアンスが違う気がするんだよな。第六感=感性は分かる。要は対象を捉える形式が経験から離れているということ。この形式という言葉、最初よく分からなかったが、この言葉以外は当てられない。対象と認識を媒介する翻訳機構とか様式とかでも意味は通じると思うが、しっくりはこない。そうして感情は、別に感性的認識からだけ起こるものではないでしょうというのが自説。悟性的認識から感情が動くことも当然ありうる。というか後者の方が多いよな。いや、悟性的認識ではないのに感情を動かすものはなんだ→感性的認識だという流れなのかもしれない。どうなのだろう。

 

本日は自覚的な部分では全然思考できてないなと思っていたが、書いてみると意外と考えていた模様。

 

寝る間際の心地良さの話。

 

存在しているだけで嬉しい存在というのは最強の安心材料よなとなった。存在とは大丈夫そうであればそれでいい。なんなら大丈夫でなくても良いのかもしれない。存在の定義の中に「生きていること」が含まれるのか、含まれるか。

 

この先は僕の主観に依りきった話だからなぁ。どうも僕が通り過ぎたあまり好きではないカップルとイメージが重なってしまう。風の噂では結婚したみたいだから当人達はそれで良いのだろうが、いや、良いのであれば良いのだろう。し、中身は違うに違いない。

 

感性的認識だけで捉えれば良い。

 

そういえば、感性的認識を言語で記述した場合、それを読み取ることは悟性的認識にならないかということも考えたのだった。言葉で経験で知ってないと読めないし。そこから感性的認識が抽出できるのか。まぁこの認識の区分はあくまで人工物だから、どちらの認識も同時にあるということもありうるか。

 

ここまで。

 

ではおやすみなさい。

 

良い夢を。