なんか変


おまけ三部作。
昨日のはちょっと違ったかもだが。

昨日の日記を書き終わった後、外は大荒れ。雷鳴がとどろいていた。ベランダから眺めてちょっとわくわくする。本日、雷が苦手な年下の先輩が「世界の終わりかと思った」と言っていて、良い表現だなと思う。

しかし、僕がもっと注視しているのは音でも光でもなく、3階のベランダから眺める道路に落ちた雨粒の変化だった。ここから落ちても楽にはなれないだろうなと眺めていた過去もぶり返したが、そこに流される程楽しんでいないことはないから大丈夫。

この大荒れのあとの今朝は、とても晴れていた。かつてピンクの絨毯だった田んぼは田植えが終わっていて、心なしか元気に見える。ついでに、小学生低学年のころ、田植えをした足首に触れる泥の感触の記録を楽しむ。ひんやりしていて気持ち良い。天然の泥エステ。

感触の記録もひっぱりだされるようになってきた。ただ、これは別に記憶力ではない。自分のアーカイブの参照はみんな無意識でやっていると思っていて、あえて取り出さなくても良い。僕は趣味で自分のこの感じはどのアーカイブと繋がっているのだろうということを可視化できるように引っ張りだしているが、別に必要なことではない。何もない空間に閉じ込められても暇なく楽しめるとは思うが。別に瞑想みたいな高尚なことでもない。

ここ何日か、雨についてずっと考えている。

仕事場で雑談を聞いていると、雨はおおむね不人気だ。これは雨自体の像というより、雨がもたらす結果としての不便にブーブー言っているように思う。僕は不人気なものに注目してしまう質ではあるが、雨についてはどうも違う。

雨にまつわる記録を遡っていっても、特に良い印象はない。雨の名前が付いたハンネの人と仲良くなったのは楽しかったが、一番長く過ごした恋人さんと初めて会った日の夜に雨の中ホテルを探すシーンとか、さらにずっとずっと遡ったときにある感じは、適当な言葉を探すと、「不安感」だった。

実家の薄暗い居間で1人。カーテンの隙間から激しめの雨が、庭のカタチを変える様を眺める。瓦が直角になっているところでは水が集中して溜まりを作るし、道路に降りる小道にはどーどー流れ落ちていくし、水があらゆる方向に流れるし、雨粒が作るクラウンは瞬間瞬間でカタチを変える。

僕はこの感じを最近まで、絶対的な孤独に対する不安感なのだろうなと言語化していた。でも、個々の言葉に当てられた感じは正しいとしても、なんかしっくりこない。

そもそも、こういう心象風景が原初であれば、雨にもっと悪印象を持っていても良いはずだが、不便さとは別にもともと好きなんだよな。雪も好きだが、これは希少性に寄っているもので、雨はもっと日常的に好き。最中の植物には表情があるし、事後に洗い流された植物は輝いているし、という植物=森繋がりではあるのだろうが、もっと別にあるのではないかと考える。

ヒル公園に向かう道中だったかな、ふと、なるほど、「無常への不安か」となった。原始文教繋がりなのかもしれないが、もともと仏教は、因習から離れた素朴な自分に辿り着きましょうという一種の思想であって、信仰対象は自分自身なので(僕の解釈だが)。

世界が不変ではないというのが否応なく可視化される現象。晴れはそういうのは見ようとしないと見られないし、台風は突発的な天災だから過ぎれば凪ぐ。

変わらないものなんてないということに対して、人は結構本能的に畏れるのではないか。凪いでいる方が良いに決まっているものな。雨に世界の本質を見たのが原風景。最終的には死への不安とかそんなやつ。

でも、変わらないものはないというのは救いでもある。僕はこっちを見ているのかもしれない。人の変化とか、自分の変化とか。僕の文章を「優しい雨のよう」と表現してくれた方が居たが、なんとなくしっくりきた。個人的には自分の精神性はふわふわうつろう風船みたいなものと、不動の根を張った木々みたいなものだったのだが、「森に降る雨」とすれば凄く整合性があって良きなと。雨はどこにでも降るし、降ったり降らなかったりする。

自分の精神を何かに喩えるというのはおすすめではある。最初に求めていたものが分かりそうな感じ。僕のは人工物ではないから、人工的に誰かに居場所を作る必要がないのだろうなとなる。営みは外から見て十分楽しいし、なんなら、居場所くらいいつでもどこでもなんとでもなるくらいな勢い。伐採されると森は無くなってしまうが。何処にでも行けるというよりは、どこでも在れるみたいな話。

好きな人の日記が更新されており読んだのだが、とても和やかで良いという第一印象。もう大丈夫そうだなと、どこ目線か分からない感情にほくほくする。安心できる人と一緒に居るのは良きこと。同居人さんビール党で同じ一番搾りかよ、うける、とか。これは、和やかに書かれるようになったというより、僕が和やかになっただけかもしれない。ここの因果は不明。

ただ、何回か読み返していると、文体がちょっと変わってきている感じがある。で、この感じを追っていくと、そんなことは在りえないという直感に至る。そんなファンサービスなかろうというか、僕の書き方に倣っているのか、みたいな。いや、そういう風に書いてくれる人おったら楽しいだろうなと思った想像はあったが、どんな理解者だよって。どういう意図なんだろうと思ったが、僕はこの人が僕の世界に顕われてくれたことを実際どうなるかとは関係なく無条件にありがたいことだと思っていて、それに対する返信みたいなものなのかという説。

いや、全然影響受けてないですしって言いそうな主観の人っぽいと想像しているのだが、何か素直だ。写真は共有のための証拠でなく作品でもないってこっそり返答してくれるし。

僕も変人センサーはあるから、引っかかりがなければとっくに退場していた。
ただ、あんまりお邪魔してもどうかと思うため、忘れたころに文章が置いてあるくらいで良かろうなという感じ。触らなくても話さなくてもどうでも良いな。動物園には行けたのだろうか。

この人の観念の中に、「夜の人」と「昼の人」みたいな区分がある。あんまり分析すると嫌われそう(いや、むしろそうあってほしいの)だが、社会としてまっとうかどうかではないか。何かこの辺りに囚われを感じるのだが、まぁ良いとして。

僕は、夜の人も好きだった。大学時代近所のダーツバーに入り浸り、その場だけの関係を楽しむ。あれはあれで良かった。マスターが仙人みたいな人で、なんにも話さなくて、ひたすらカウントアップをしていても放っておいてくれた。ある意味インターネット世界と近い匿名的な存在が許されるのがバーという場。友人の結婚式に前乗りした鳥取県のバーで意気投合して朝まで飲んだのも楽しかったな。人への興味が解放できる場ではあった。

が、僕は自分の場をどこでも良いとしているというか、世界に置いて承認されることに重きはないから、夜でも昼でも違和感がある。人は、安心とか利用のための道具的な存在でしかないのだろうかという疑念。

kindleではスピリチュアル的な本を読んでいる。引き寄せとか波動とか次元とかの話。僕は手放しで賛同する訳ではないが、こういうのは割とただの現実的現象なのかもなと思ってきている。金縛りとか霊現象に周波数が合ったこともない(とは言い切れない)し、思考が現実化するというのも、あんまり分かっていないが、そういうことはあり得るとは思う。

そういうものだとの思考をすることで、エネルギーが方向性を持つとか、世の中にはエナジードレイン(吸血鬼)みたいな人たちが蔓延っていて、人を疲れさせることで自分のエネルギーにするとか、よく分かる。決めてしまえば奪われない。

あなたの為だっていう前置きで自分のことを制限してくる人とは離れた方が良い。

感情って、主観というより客観的な学習によるもの。疲れもそう。
ここまでは分かる。

のだが、こういう話を読んでいると素朴な疑問が浮かぶ。

人が人間関係や物質を自分に合うように引き寄せることができるとして、物質には意識(波動)があるとしても波動を意図的に変化できることはできないから良い。では、その人間関係に引き寄せられた他人はどういう評価なのだろう。その他人も引き寄せの法則があるはずで、自分が引き寄せられたということにはならないか。

現実がホログラムなのは分かる。イデアとか捉える主感によって世界が変わるのは良い。

こういう話を見るにつけ気になるのは、自分を主人公として物語が構築されていて、相手を自分と同等とみなしていないというところ。自分が引き寄せた結果、良いパートナーに出逢えたという表現は、相手を等価と見ていないとしか読めない。

というのが論理的思考。
要は、引き寄せた人間関係を自分の人生の登場人物としか見ていないという不自由。良いんだけど、僕はこういうのはなんか嫌だなって思ってしまう。

寄り添う関係は要らなくて、並び立つが良い。並び立つということは、相手は相手の人生があると認めながら、依存しないこと。だから、放任が一番良い。これが人間関係の本質。ただ、どうでも良いと見た目では等価だからややこしい。

この引き寄せの本は、現実ではない声が聞こえる人が書いていて、そういうことは普通だと思う。心の声みたいなものであり、不文の印象を感じているだけ。

人は結局テレパシーで話しているというのも当たり前で、会話をしている時に読んでいるのは言葉ではない。

そういう関係で過ごしたことはない人はいないはずだが言葉が便利過ぎるから、依存してしまうのだろうな。安心って良いことだが、他己感なんよな。

こういう意味で、僕は別に高次元の声なぞ聞く必要が無い。お父さんとお祖父ちゃんに長男として申し訳ないって心で念じたことはあるが、なんにもかえってこなかった。墓参りは全然してないが、墓参りしている人達より確実に思い返していると思う。一生忘れない。

という感じで、自分が何をしたいかという意志というより、何をしようかなという遊びでしかない。自分の感情を娯楽にするって誰かが言っていたが、誰かの悲しさをなるべくなくすというの保護であって、自分の為の感情なんよな。ほんとに相手を見ているのであれば、悲しさへの対処法とか、一緒に悲しくなるとかになる。この悲しさをどうしようかという施行。

僕の次元はヨクワカラナイところに在るから、誰かと接して何かを得るというより、相手が僕のことを理解しているというとこにきゅんとする。

でも、世界に囚われて片手間で接している人が、僕のことを分かっていると言われても、「へん!」となるな。

ここだけの話という意味での関係ならまぁ分かるが。

ここまで。

おやすみなさい。

良い夢を。