どこでいきるか

 

 

定期的な筋肉痛。山は登っていないからそれほどでもないし、筋肉痛くらいなら無理にはならない。無理はしない(し人に無理をさせない)ということにしているが、すじならともかく筋肉痛であれば超回復で無理ない範囲がより増えるだけ。

 

ここ何日か、某動画サイトで好きだった人がもっと巨大な動画サイトに別名で公開していて、その声ばかり聞いている。実際どうかは知らないが、僕の中ではそうしている。歌わずにはいられなかったのだろうなという解釈。表現熱って、当人の精神とか生活が凪ぐと冷めてしまうのではという気がする。昔の文豪のイメージだが。

 

社会に収められない自分の何かをアピールせざるを得ないという衝動がギフトなのではと思う。僕には何の才能もなくて良かったなと常々思う。文才があったとしたら気ままに書けないし、読み返したら悶々としそう。一筆書きの後2日目に誤記くらいは直しているが。日曜日は夜遅かったからなかなかひどかった。僕はきちんと社会には収まっている。そういう意味ではすげー普通の人物である。常識を疑っているだけで常識的な行為ができない訳ではないし。

 

さておき。

 

悲しみが過ぎ去るとなにやらそわそわする。何が始まるのだろう、いや何を始めるのだろう、か。古木巡りの次は学習したから1か所に絞る。JRはだいぶ乗ったから今度は近鉄線で熊野古道を歩き尽す。たぶんそんなに人は居ないはず。暑いし。

 

自然を歩いていると、自分の中にある記憶とされているものが次々再現される。この草臭いんだよなとか、この草、茎の部分だけにしたら鞭っぽくなるんだよな、とか。田んぼを車窓から眺めている時、等間隔で色んな種類の鳥が居て、野鳥系は全然知らないらしい。カラスと田んぼの取り合わせはなかなか新鮮だったが、田んぼによくいる白く足長の鳥の正式名称が分からない。サギで良いのだっけ。

 

ちょっと置いておいて。

 

Kindle読み放題で幽霊界の話を少し読んだ(先週のどこか)。冒頭辺りでやめたのだが、幽霊って、魂というか意識というか、三次元よりちょっと上の波長が見えるものなのかなと思った。死んだ人は自分が死んだことが分からないから死体と重なって寝ているとか、幽霊は全盛期のその人の姿になるとか、自分の顔は見られないから、顔から失われるとか、あり得る話。こういうのを実際見たことないのに信じられるのは常識人ではないかもしれないが、ともかく。

 

フレーズとして面白いと思ったのが、「人間は肉体がないと時間を生きられない」というやつ。すごくしっくりくる。意識の高次は肉体の三次元の器に収まっている。意識の時間と肉体の時間の進み方は違うから肉体で時間を調律する。

 

この話からの発想なのだが、文体というか人の存在と、肉体の器は特に等しくないよな。どこかの全盛期で存在としての時間が止まっている人もいるし、肉体に合わせて存在している人もいるし。人が書いている文章ってこういう存在がにじみ出ているのではという味覚論。最終的に自分の原初に返るのだろうかという感じ。好きな人の文体は普通に滑らかでちゃんと鍛えた人という文体だが、滲み出る女の子感。きゃぴきゃぴしているのではなく、じっと大人しくアピールが下手な女の子。という可愛さ。

 

僕が読んでいる、僕を読んでいる人達もだいたい実年齢(あんまり知らないけど)より若いように感じる。若さ至上主義でもなく最初に自分が完成したときに戻ってきているのかなという解釈。僕の文章にはそんな文体アンチエイジング作用はないと思うが、あったら面白いな。笑

 

そろそろ次の本も買わねば。自然科学分野では天文学かな。そういう日記を読んだから昔読んでいた星座とか宇宙の本がぶり返されてしまった。たしかに、宇宙の神秘(ブラックホールとか宇宙の始まり)と、死への感じはとても近い。そういう無への不安を想いながら寝ていたな。

 

天文学としての星の運行はケプラーさんだっけ。宇宙では重力で時空が曲がっているって、どういう世界なのだって思うよな。トランポリンに乗せられたボーリングの球みたいな感じらしいが、そのすり鉢状の空間に光すらアリジゴクみたいに吸い寄せられるとは。科学分野なのにSFみたいな世界だ。相対性理論もきっとそうだが、こういう想像レベルの物事を客観に耐えうるように数式にできたから天才なのだろうな。

 

社会科学では、難しい天皇制か。冒頭を読んだ話ってまだ書いてないよな、たしか(いつだ、1か月は経ってない気がするが)。日本の天皇制って、原始宗教みたいな熱烈な信者が後押ししたことによって存続したのはなんでだっていうことを解明してみるという話だった。

 

昨日笹に短冊をかけているのを見て、そうかそろそろ七夕かとなったのと繋げると、日本人って、超自然なのか自然なのかに祈りとか願いをする感覚がナチュラルにインストールされているよな。自然が祈りに応えてくれるはずはないと思うが、ひどい時には人身御供とかもあっただろうし。人身御供は全世界共通か。神事をイベントにしてしまう感じ。そういうあやふやな信仰の象徴が天皇制だとすると、なんとなく続いているのも分かる。無神論者でも、何か人知を超えた存在が在るというのは共有されているような。

 

この本はどういう方向に向かうのだろうな。わくわく。

 

そういえば、昨日母親のことをぼろくそに書いたような気がするが、僕はこの人のことを母としては当然に尊敬している。この人が無茶苦茶荒れていた時期と一致するのだが、めちゃくちゃ凄い生活をこなしていた。おにぎりはやたらと固かったから不器用な人なのだろうが、ひたすら凄い人。対等な人物として見ると昨日のような記述になる。なんなら人は誰でも尊重するべき対象であるのは当たり前だから、この人だけとはいかないが。

 

この文脈で言えば、ナチュラルな尊重を感じる人しか今は接していない気がする。

行為というより内心のところ。そんなところなんて見えるものなのではないのだが、味の話。

 

認識の対象になる前に存在を感じるのが神の味覚だというフレーズを読んで、たしかに存在ってそういうもんだよなと思ったのであった。

 

あぁそうだ、昨日「社会的安全」の話を書いた。ちゃんと警報が鳴らないと危機回避できないという生物としての人間の習慣。割と安全な社会で生きているから有事に対処できない。

 

という概念とは別に、「心理的安全」というのもある。物事を深く自分に浸透させるためには、この安全性が必要だとか。記憶術の話で読んだのかな。無駄なことを収集したり、考えたりするには、自分が精神的に安全であるという自覚が要る。この自覚は表層ではなく脳の自覚。物事を覚えられないっていうのは、脳が不安感とか焦燥感に占有されているのかもなとも解釈できる。

 

忘れてしまうってそういうこと。昔より今が大事だし、なんなら今より未来の方が大事だという生き急ぎであくせくして時間だけが経過していく。今が満足だと認識しながら、実はずっと不安感が拭えない。脳の容量って特に個体差がないらしいし、僕が凡人代表みたいなものだから、本当に忘れたくないなら、それはできると思う。忘れたくないと思うだけでは駄目だし、ここまで自意識を改革する必要があるのかとなると、そこまではする必要はない気がする。

 

この文脈で僕が止まり木であるという感覚はやっぱりそうなのだろうなという感じ。あまり危険ではないし、自分のことは認識されているし、安心の対象みたいなところ。それでないがしろにしていいと思う人には退場していただいた。

 

まぁ、僕がどう読まれているかは僕の範疇ではないからある意味知ったことではないが。

 

 

ところで、プラトンさん流の世界の階層という話が面白かった。最上位から「一者」、「知性」、「魂」、「現実界」らしい。一者は造物主とのことで、僕は人間が生まれたから造物主も造られたという解釈だけどこれはまぁ良い。

 

魂よりも知性が上なのがなかなかあべこべな感じで良き。ここで言う知性ってなんなのだろうな、世界への理解みたいなことなんだろうか。今の日本でいう知性ってなんだろう。知る性ということからすれば、自分が無知であるということを知って、他者を他者として想像できることとしてみたい。知性がない笑いは駄目だって誰かの日記で読んだが、たしかに他人の無知を笑うのは良くない。自分の無知を笑われることを是とするのであれば良いけど、なんだか愛はないよな。

 

まぁプラトンさんって、その時代の人の認識が影でしかないって考えていた人らしいから、こういう解釈も分かる。この考え方がキリスト教に浸透したところで、神の世界が信仰されたのか、なるほど。

 

こういう感じって別に他人事ではなく、無造作に信仰してしまう対象はどういう人にもありうる。僕は行動と思想は切り分けているからどれだけ考えても特に常識っぽいものとの乖離ははない。

 

常識と思っていることはなんですかって個別にソクラテス問答してみたいところだが、そこまでして自分にたどり着く必要もないと思う。これはこれで大変だし。

 

「読書する人だけが辿りけること」という表題の本があるが、個人的にはこれでたどり着く境地は、人はどこにもたどり着けないし、自分のことすら完璧に分かることはないという行き止まりみたいなところで、それでも何かしますかという判断を迫られることだと思われる。ただ読むだけだったら大丈夫だとは思うが、そこまでほんとに世界を感じたいかというところ。

 

なんだかこのご時世のところで異物を自分の体内に取り入れることに違和感を持たない人って多いんだなと思う。先輩男子は、これをしないと甥に会えないって言っていながら早退したが、ほんとに会えないんかなとか。

 

僕はほとんど他人に会いたいという衝動がないからなんでもないが、それを打ったことで人と会える免罪符にほんとになるのかというところがとても気になる。

 

そういう話なのかって。

 

まぁ良いや。

 

寝まする。

 

おやすみなさい。