ただの人

 

 

今日も今日とてゆめとうつつの境界線に言葉を載せる。傘の持ち手を掌の上に乗せてバランスとっているみたいだ。ぐらぐらゆらゆら。

 

 

掌から入ってきた悲しみは体全体にまとわりつき、体を重くさせる。とはいえ、悲しみもエネルギーではあるため運用方法について考えていた。嬉しさとか感謝とかの正の方向がしたくないことでもついでにやってしまえる軽さだとすると、悲しみの重みは、「したくないことはするな」というブレーキのエネルギーかもしれない。

 

朝、母親から「時間があるときに電話して汗」というメッセージがあり、こういう風に問われたら、そんな時間はないって回答したくなるのが素朴な語用。時間は空から降って来るような客観的な財産ではなく、それをするために創る、調整するものであって意識的に使うもの。一般的な感覚でいうお金と近い。「時は金なり」ってこういう意味だと思う。この意味で考えると、通話って両者のコストがものすごく高い疎通法よな。どちらも同じ時間にそれをすることに合わせないといけない。

 

母親は僕と「関係」があるから、この関係のパッケージの中に通話も含まれているという認識があるのかもしれない。が、そんな合意はした覚えがない。こう書いていると僕がめちゃくちゃめんどくさい人物に見えるが、そういう自覚があるのかということを問うているだけだから、自覚があれば問題ない。人の時間は自分に補填できない価値があるから、相手の判断を尊重する。関係が悪いということではなく、関係のひな型を無作為に用いるべきではないということ。

 

通話内容もなかなか大変だった。試験に落ちたとき、「今後を考える」とメッセージを送っていたのだが、その選択肢に、今の自分が住んでる部屋の空き部屋に住みながら仕事と勉強をすることも入れてくれないかというという提案。内心は僕を狭めた原因に当たる人物とルームシェアとか不可能だわという即答案件なのだが、僕もオトナなので、しかるべくという感じで答える。自分の方が優位だと思っていると今更住むとか無理だろう。

 

続きもので、「恋人はいるのか」という問いで、「中途半端な生活をしていたら相手もできないわな」と言われたのだが、これも押し付けられた強迫観念で、僕は今の自分の生活が中途半端なものだとはしていない。別に毎日働いて料理と文章を創る1人の生活は楽しいし寂しくもないから、恋人という関係のパッケージの人物は求めてない。寂しくなくても一緒に居たい人が現れれば、というぐらいの話。言葉と実体を切り離さないといけなかったのはこういう呪詛的な言霊が世の中にはいっぱいあるからなんよな。

 

ここで、この恋人が中途半端な生活しているとできないという理由付けからすると、親と同居している男性こそより中途半端になって恋人は顕われないというのが自然な論理で、なんとも頓珍漢なことを語っている。でもこれってきっと当人の中では整合性がある。何故なら、ここの部分はどうでも良い話で、最重点は、息子を近くに置くことで自分が安心したいだから。理詰めでいくらでもできそうだが矛盾を突いたら大変だからしない。叔父さん(母親の弟)がちょっと反論したらヒステリーが発狂したのは覚えている。高校時代くらいだったな。この人とは会話はできない=世の中には会話ができない人があるという経験則。

 

心配に客観的な意味があるものだと思っているのもどうも。

すげー構ってちゃんだわ。

 

あと、このご時世のアレを打つかどうかの話。副次的な反応はともかく打ったら安心みたいなのが当たり前だとしているところで、AIの本であった、「社会的安全」の話を思い出した。火災警報器が鳴ることで取り乱して良いというか非日常的行為をして良いという認識。これがどうつながるかというと、おそらくこれを打つことで、この事態に対して自分がどうなっても免罪符というか他責にできるという認識を持っている人は多いだろうなということ。

 

僕はどの選択をしても良いとは思うが、自分の選択に対して責任は持とうなという立場。でも仕事をするのは学校と違って自分で選択した契約なのに、そのパッケージを自責とできないことからするとそうはならんか。したか、してないかで仲が悪くなるというのもなんとなく分かる。でも倫理の押し付けはどうでも良くなってきているからどこ吹く風である。

 

母親が職場でそうなっていないのかと聞いてきたことに対して嘘をついたが、説明して納得するようなことがない人物に対して言葉を尽くすのはただただ面倒なだけ。結局掘り下げて行くと直観の対立になって、相手の直感もありうるものだと受容できる器がない人に説明するエネルギーは持ち合わせていない。言葉の準備はあるとしても。

 

ある意味ボランティアよな。僕は生き延びた自分に対しては良く生きてきたなと思うが、それに対してされたことは、した人の勝手よなと思う。自分が求めたとしても選択するのは相手だし。これを冷たく感じる人もいるかもしれないが、こういう営みと人の本質はあんまり関係ないよなとしている立場。

 

さておき。

 

どうでも良いが、昨日行ってきた場所の省み。人は忘れる存在だというのは真理だとしても、僕は忘れない奴かもしれない。自分しかないのだから、その自分くらいは大事にしておく。ということで、まず、膳所(ぜぜ)から映画館に行って、安曇川(あどがわ)、余呉(よご)木ノ本、高月という駅に行った。長浜バイオ大学は高校時代から気になっていたが、通り過ぎる駅のすぐ前にあった。この中で一番好きなのは安曇川。曇りで安らぐってどういう名付けだろう。実際にこの川を下ったが、やはり川って流れているから澄んでいる。釣り人多いなと思ったら、漁場として対価込みで運用されているようだった。鮎とか釣れるんやろか。鮎の塩焼き好き。アマゴも良き。

 

悲しみをくれた「唐川の野大神」は、調べたところ台風で根こそぎ倒れたとのことだった。自然の所作だったから良かったとはならず、ただただ悲しいな。この悲しさは、浮気された時に感じたものと似ていた。共通項としては、「実存(だと認識していた存在)が喪失されていたことを感知したときの心の動き」。村上さんのどれかの小説の中で、実家の飼い犬はとっくに亡くなっていたが、その事実を知らされたのはずっと後だったみたいなエピソードで芽生えた感情とも近そう。

 

このまま感情の分析へ。感情ってその感情が浮かんでいる状態でしか手に取れない、感覚とは違って。昨日道端に野イチゴが実っていて味覚が再現されたし(良いオトナなので実際は食べなかったが)。でもこれって、ラベルで再現されるという観念だと、感情の方が再現できることになるのだよな。過去も言葉だし。

 

で、悲しさは寂しさとは全然違う。寂しさとか孤独感って人である以上当たり前のものであり、そもそも何かで埋められるものではない。なぜなら、人の本質は、ほかのものではないそのものであり1つしかないから。遡れば遡るほど仲間は居ない。関係とか社会とか生物とかの括りで無理やり共通項を作って慰めようとしても、そこに気付いてしまった人には無理。人間のまとまりでここを充足させようとするのは、物理的な空腹を埋めるために映画を見るみたいな頓珍漢なこと。孤独はあくまで孤独でしかない。

 

人間に固有なものはこの孤独感を感じられることだと思われる。意識は植物にもあるし。クラシック音楽を聞かせると良く育つという機構は意識ととても近い。僕の中では意識って、外界の作用から波紋を受ける器の中の水みたいなもの。これはあくまで受動的な影響からの作用で、植物生理学を読んでいるとそう思う。あらゆる外界に対して反応できる準備を持ったシステム。

 

この文脈から、感情ももともと当人にあるものではなく、あくまで外界に反応するシステムが構築されているとすると、なかなかわかりやすい。その感情の種がないと何が起こってもそういった反応は起こらないという解釈。この種は習慣付けなのかもしれないし、本当にもともと持ち合わせていたものかもしれないし、出自は不明なのだが、少なくとも客観的な存在ではない。

 

今、関東辺りが大変らしいが、これとは別に自分が楽しんでいるということを表明するべきではないという「不謹慎」の感情も学習作用でしかない。常識的振る舞いみたいなことなのだろうが、突き詰めたら、何処かで必ず泣いている人がいるし、なんなら退場している人も尽きない訳で、生きているだけで不謹慎になる。あくまで認識している人の範囲を限定しないと起こらない感情。

 

人間の固有性はこういう機構から離れることもできるということ。

目的とも関係とも離れた可動性。

 

こういう風に考えていくと、僕が他人のその人の範囲を慮って自分を制限することもおかしいよな。僕は会っても良いなって思っている人としか関わってないし言動ならぬ現虚一致。ただ、道が決まっていないところの判断ってかなりエネルギー遣うのも分かる。でも、考えたところで何か答えが出る問題ではないのはたしか。

 

考えるって、未知の道に対してはブレーキの作用しかない。思考を抽象化できていればある程度予測が付くというくらいで正解に辿りつくことはできないし。正解の為に考えるというのは基本的に悪手だと思う。

 

悲しみを観測していると新しい解釈に辿りつく。

悲しみの感情は、新しいなにかの予感みたいなところがある。喪失のあとには誕生があるみたいな。別れと出会いなのかな。新たな巨木は知らないけど、もっと人と素朴で接して良いのかというのはある。母親のめんどくささは取るに足りない。連動しなくて良い。

 

結局は、切り離した後にも尊重できるかというところに人と人の間があるという感じ。

 

あぁそうそう、芸術の自己目的性というのもあった。あくまで自分の為の行為であるということ。無駄に人のことに重きを置き過ぎているから制限されると思い込んでいるのか。

 

こんな感じで、すっきりとしておしまい。

 

おやすみなさい。

良い夢を。