語義

 

 

 

異界にお邪魔しつつふわふわ遊ぶ。

 

 

引き続き、料理の話から。先輩年下男子のうちに今度友人が遊びにきて料理を振る舞うらしい(ほんまか)という雑談。女性上司と料理を言葉で交換しているのだが、かつ丼、カレー、親子丼、天ぷらなど、名前が付いた料理しか出てこない。生活で料理していない人はそうなるのが通常なのかなと思うが、今やあんまり分からない。カレーにするとのことだったが、もしかしてルーで作るのか、2人で食べきれるのか余計な心配が芽生える。

 

僕が振る舞うなら完全に創作居酒屋。蕪のなんちゃって浅漬け、もやしとワカメの雰囲気的ナムル、きゅうりとシラスのお酢和え、メインは唐揚げもどき(おろしポン酢)とか。今考えてみたメニュー。もっと予算があれば自家製たこわさとかもある。一回だけだが作った。どれも全然時間かからない。

 

料理が上手くできはじめた頃に遊んでいたのを思い出した。当時の職場で作ったおかずを振る舞う遊び。リクエストで唐揚げとか、チキン南蛮とか、酢豚とか、やっぱり名前がちゃんとついたものばかりか。あと、スイーツも一回だけ。サツマイモが届いて1人で食べる使い道ないわって雑談していたら、じゃスイートポテト作ってみてと。評判は上々だった。もちろん対価も取ってないし、何も返ってきてない。それでもまぁまぁ面白かった。知らん人が作った料理をよく食べるものだと思ったものだが、そういう警戒心を解くような何かがあるのかもしれない。なんなのだろうな。

 

ふと、この振る舞いが愛的な行為だとしたら愛って遊びの一部なのではという気もしてくる。自分の料理を美味しそうに食べられるという嬉しさという感覚もなかったし。ただのたまたま職場が一緒になっただけの他人達。

 

こうやって今の職場でも別のところで遊んでいると、味を占める人が出てくる。この前の日記にも書いたが、「専属で」と言ってきた人が、全然別件なのに僕を指名してきた。そういう制度はないし、全然嬉しくもない。当人僕に激昂したことがあること覚えてないのかな。都合が良い人認定だわ。仕事の中で限界の領域まで遊んでいるというか、その人のこと考えているから、下手するとこういう人が現れる。おかず振る舞った職場では同僚のだいたいがそんな感じだった。今はやろうと思えばなんとでもできるだろうし、職場もまともだから問題無い。

 

そういえば、料理が下手な人は、完成形のイメージが付いてないから段取りができずに迷走するというのを読んだが、僕はきっちりイメージをカタチにしてから作るタイプではない。わりとざっくり。ここの日記も見切り発車で書いているし。劇評だと最初に感じたものを言語化するという方向性はあったが、これも別に最初の感じにカタチがある訳ではない。

 

絵が描けない理由がなんとなく分かる。僕の中にある画像イメージは二次元に落とし込めるほど鮮明ではない。ということは、デフォルメの技術を訓練すればなんとかはできそう。そういえば、図画もずっと3だったが木を書くのは好きだったな。試行領域。

 

音楽が苦手だったのも、リズムと体の動きが合わせられなかったことと、一番は声のコントールよな。自分の声が通らないのは性質だから良い。こんなのは腹筋に力を入れて響かせれば済む。声を貼ってみるのも面白いのかも。

 

結局は誰に認められるかということより、自分にどこまで可動域があるかのこと。

この域になったからかもしれないが、ずっと肩と首が凝っていたのが今日触ってみたら柔らかくなっていた。知らんけど。

 

さておき。

 

本題。

 

頭の中がかなり自由になってくると、人が言葉でしか考えらないのはやっぱ嘘というか、段階的には初期なんだろうなと思う。名前が付いている料理しか料理でしかないと同じようなことで、例えば名前が付けられない感情は存在するが、それに言葉でラベルを付けることで、名前が付いているようにしてしまう。

 

確かに話し言葉って世界を知っていく機能はあるのだが、そこで留まっていると容易く自分と社会が同期されることになる。そうじゃない自分も人も名前よりもっと前にある訳で。

 

この文脈で、本能的感情としての言葉がそれほど信用ならないということになっている。AIの本だったか、種の存続のための衝動と、人間の進化は連動していないとかあった。例示だと、糖質を求めるのはかつて不足していた人類史上で、体が食べられるときに蓄えておけよと衝動させる名残だが、いまや不健康になるのを知っていても過剰に食べてしまうとか。

 

自制心がないとか理性がないとかいう話になるのかもしれないが、そもそもなんで不健康を求めることを自制しないといけないのかというところ。僕の中では体が重くなるのは困るとか、糖質摂り過ぎると体調悪くなるというあくまで自分の中の理由なのだが、自分の中の理由において食べている人ってどれくらい居るのだろう。

 

DNAとか生物学上の衝動を正しさとすることの疑わしさってこの辺りなんよな。社会的になるともっと胡散臭い。いや、別に当人がどれだけ不健康になろうが、それを自分で理由付けていれば問題ないと思う。人間っぽい。ただ、それが、なんとなく蔓延している正しさへの反発だったら、うーむと思う。

 

こういうのは、自分がどこまで人間であるかというか、人間をどのスケールで捉えているのかということだと思われる。愛着とか恋愛感情も良いものだが、他責にできるようなものでもない。

 

僕は原始仏教の捉え方はだいたい好きなのだが、八正道はなんとなく駄目だ。正しい行いとか正しいなんとかで、この「正しさ」の中身を教えてくれと思う。まぁ宗教の構造として正しいことを標榜してなんぼというのは分かるから仕方がない。割と人の意識が集合していた時代だろうし、インドはバラモン教で階級格差がどうしようもなかっただろうし。

 

そうして、日本の道徳教育の正しさみたいな話。

 

僕の言葉の捉え方として、本音と建て前みたいなものではなく、言葉は当人の語義であり、とりあえずまるっと受け入れるというスケールがあるということが今更ながら分かった。別に広辞苑的な意味ではなく、人はちゃんと自分の言葉として言葉を扱っているはずという目論見。

 

今の道徳がどうなっているか知らないが、僕が受けた当時は、こういう人に同情しましょうというか、相手の立場になって考えてみましょうって嘘ばかり教えられた。部落差別が印象に残っているが、これって施し的な、あくまで自分は部外者であることが前提になっている。だから、建前上良いことはいくらでも言える。

 

僕が教えるのであれば、人は相手の立場にはなれないのは当たり前だが、相手も自分と同じような人間であると想像しましょうだな。で、結局受け入れらないという結論も当たり前で、だからと言って攻撃して良い対象ではない。自分が攻撃されたら困るのであれば他人も攻撃しない。何もしないという尊重の仕方もある。ただ、度外視で攻撃されるのであれば、正当防衛というシステムもあるんやでみたいに現実的なことも含める。

 

風評被害とか、ほんと教育の欠陥だと思う。

 

年下先輩男子と上司の雑談で毎日何百人とか言っているのだが、何かと思ったら感染者数なんよな。そんなに人の不幸が美味しいのかというか、そんなことで盛り上がれるのかいうか。ちゃんと人間か(言い過ぎ)。

 

なんだっけ。

 

僕は自分を遡ってみたところ、特に呪詛はない模様。もっと遊びたいということだし、根にあるのは空と無とかそんなやつ。母親のヒステリーももうどうでも良いもんな。

 

これってある意味法律学からの見地で、法律はあくまで社会という枠内のルールでしかなく、それと個人的な観念は別に連動する必要がないということ。という切り離しができたことによって法律学も面白くなるし、正しさを主張できる人の無根拠性も分かってくる。

 

自分は素朴にこうであるという信念はとても良きことだが、どこまでがほんとに素朴なんだろうな。まぁ、ある時空でしか生きられない以上、その時代と土着からは離れ切ることはない。

 

と突き詰めると、素朴で純粋な自分なんてないということになり、コギトっぽくなる。

 

あんまり知識的なことを書いていないので、最後はそういう感じで締めるか。

 

何かを裁くとか自分ルールを考えるとき、法律学の手法は流用できる。感情で判断するのではなく反対事実がどうかも天秤に乗せてみるとか、ルールには目的と機能がある訳で、それがちゃんと自分にメリットになっているのか、自己観を保つだけなのかとか。

 

僕の中には純粋な意味で自分のための言葉はないらしいから、この日記自体が愛みたいなものと捉えて、余計楽しくなる。

 

あぁ忘れていた。

 

今週末は本で動くことにしようと思ったが、体も動かしたい衝動があり、原点回帰しようかと目論んでいる。鴨川はどうせ人が多いだろうから、誰とも、1人でも行ったことことがない人が居なさそうな巨木に遭いに行こうかなって。好きな人の生息圏だから生活圏には交わらないように。生活圏あんまり知らないけど。

では、おやすみなさい。

 

良い異界を。