規定と任意

 

 

朝一で自分の日記を読み返すことなぞ通常はない。しかし、ふと何かの知らせというか違和感があったため読み返した。自分の違和感レーダーには若干トラウマがある。人のスマホガラケー時代だったかも)なんて全く興味ないのに、浮気相手とのやり取りを見つけてしまう。見つかったらやばいねみたいな。うえぇ。

 

やれやれ。読み返したら違和感レーダーは正解で、演劇のタイトルを盛大に間違えていた。すぐ直したが副題まで間違えていることに後で気付いて、しかしここを直すと文章が壊れるなと、今日訂正しようとなった。

 

固有名詞だけで切り分けることがとても苦手なことを再認識。別に尊重してないとか、てきとーに把握しているとか、楽しみにしてないとかではないのだが。ここはあんまり直す気もないのかもしれない。訳は後述。

 

タイトルは「WILD」は合っていたが、その後がLIFEではなくTHINGS。ワイルドライフっていう野生動物のお医者さんの漫画に引きずられていたに違いない。ライフは命だから動物感があり、そこから怪物に繋がっていたのだが、本来のタイトルであるTHINGSは、こと・もの。概念としては物事でいいのかな。そもそも物事と意味の範囲も広すぎる。

 

WILDは野生という意味とのこと。では、野生ってどういう概念だとなると難しい。野生の対義語って、イメージでは家畜とかペットになりそうなのだが実際はどうなのだろう。ここで媒体の現象学に、人の経験はどのようにして可能なのか、という美味しそうな章で、内/外・私/私ではないという切り分けが前提となっているという概念を流用し、さらにこの演劇のシリーズが「生活」を問題としていることを踏まえると。

 

「WILD THINGS」とは、生活の外にある(と思い込んでいる)生き物ではなかろうか。とたどり着くと、屠畜が生活外の物事だとすることに対する警鐘を鳴らすメッセージ性を読み取れる。

 

で、副題も怪物ではなく怪獣だったのだが、この両者ってニュアンスとしてどちらがよりファンタジー感があるだろう。僕は明らかに後者なのだが、よくよく考えると微妙かもしれなので、前日の日記の言葉は互換性がある。どちらにせよ、人間とその外と、どちらが怪物なのかを問うものではないかという推測。

 

怪獣といえば、僕は幼少期、怪獣と恐竜の概念が混同されており、ティラノサウルスがどっちなのかが定かでなかった。今ならと思うが、ほんまか感はある。

 

この話を掘り下げる。概念の切り分けと固有名詞の切り分けは同じようで違う。概念の切り分けは内部的に行われるものだが、固有名詞の切り分けは中身を知らなくても(知ろうとする気がなくても)言葉だけ吐き出せれば分けられているように見える。

 

誤字とか言い間違いをやたらと気にする人ってインターネット世界でも現実世界でも一定数存在するが、これって、正しい言葉を社会との繋がりの縁(よすが)としているのかなと思う。何が正しいとかではなく何に重きを置いているか。職場の古参の先輩も正式名称はちゃんと表記するべきだと言っていた。

 

実況動画見ているって書いていたと思うが、街の名前の濁点の場所が間違っていただけで盛大なネタになっているのもそう。

 

こういうモノサシって、おそらく自分が「正しく在りたい」ということなのではと想った。素朴な僕としては言葉遣いが正しいだけでなんぼのもんじゃ、大事なのは中身だろうとなるのだが、正しく言葉を扱っていることが何かの正しさの証明になるのかもしれない。

 

仕事で色んな人と通話していると、方言とはローカル言葉はいっぱいあって、個人的には好ましい。職場の雑談では言い間違いみたいにネタにされるのだが、中の意味が一緒であれば疎通上は問題ないのにと想う。ああそうか、仕事の相手って外の生き物だもんな。

 

と考えていくと、固有名詞の切り分けの正しさって、あくまで外用のものでしかない。

例えば、ある小説を読んだと外に表明するためには、その小説のタイトルを正確にペーストできるだけで良いとか。

 

僕は外用に生きている訳ではないから、固有名詞に雑い奴だとレッテルを貼られるよりももっと中身を見る方を選ぶ。まぁ今となっては両立させようと思えばできるが。ただ、劇評でも推敲の9割は言い回しを直すとかではなくちゃんと固有名詞を表記できているかだったりするから、なかなか大変ではある。

 

当然のごとく、他人の言い間違いとか書き間違いとか気にしない。書き間違いを気にしている人が書き間違っていると気になるが、これはものさしを変えているだけ。なんかあったんかなってなる。

 

さておき。

 

原始仏典はところどころ怪しい。まぁこれは書いているのが1人ではないし、時代も移り変わるし、仕方がないのだろうが。

 

今は菩薩の過去世の話。過去世を創作するのはもともとの仏典としては禁忌ぽいのだが、それでも、「真実の言葉には不思議な力がある」というのは言葉の本質を突いているのではと想った。マントラの概念はここから来ているのか。

 

真実の言葉ってなんなのか、それが問題だ。

 

母親と昼頃通話したのだが、この人の言葉、ほとんど真実がないなって感じる。

他人を操作しようとか評価するような言葉は、あくまで自分のための言葉。

 

一般的には薄情でしかないのだが、母親が言う心配しているという言葉より、2日前くらいに書いた仕事のお客さんが僕に当たってラッキーって言ってくれた言葉の方が浮き立つ。ラッキーって言葉、人に対して普通に遣える言葉ではない。なんでそれを言えたのだというところも含めてなかなか好ましい人格。

 

評価としては同じことなのかもしれないが、「専属で」という言葉だとかなり重たい。指名料追加しないとバランスが取れない。心配も相手にその分の対価を求めるのであれば、関係としての共依存っぽい。

 

僕は好きな人のことを気にかけているが、別に気にかけている人は他にもいるし、気にかけることができること自体が何十億分の何人という希少性だから、そこにおいて何か返ってくるなんて余計よなというものさし。

 

母親と、「専属で」って言ったお客さんは、別に僕自体を見ている訳ではない。

いや、母親については表現力不足の可能性も推測されるがこれは善解だ。

 

僕のラッキー運と、縁(えにし)を加味すると、僕と今関係できている人はとてもラッキーだと思われる。自画自賛とかではなく、僕はもともと1人で大丈夫な人っぽいし。ただ、僕からしてもラッキーなのだろうなという感じもある。世界は鏡だし。

 

「AIは人を憎まない」の中で、合理主義者のコミュニティの話があった。雑談はなく、議論か無言かだとか。良い世界だなと思ったが、僕のこの見解は誰かと議論して発展させるようなものでもないし、ここで話したい訳でもない。

 

例えば、これから初めて出会った人が居たとして、1から僕のことを話すなんてことはできない。会話は一方的に語って良い場ではないし相手も話すだろうし。

 

そもそも、ここに書かれている僕が素朴な僕でもないし。

真実の言葉だけを遣っているつもりだが、言葉が真実であることで、真実の人格を読み取れるとは限らない。

 

こんな事を考えると、誰とも恋人になれない気がしないでもないが、一般的な意味合いでの恋愛市場に自分を上場する気もないから、問題ない。一般的ステータスでは勝負できそうだが、偽ったまま過ごせる気がしない。

 

いやはや。楽しいな。

 

そういえば、演劇論みたいな本の中で、谷崎潤一郎さんの細雪が出てきた。谷崎さんの味は濃厚、ではなく、世代間の思想の隔たりみたいなところ。自分の素朴な思想だと思っている部分が先代からの申し送りであるということが表現されていた。

 

僕は申し送り全部突っぱねた感があるのだが、申し送りの思想と素朴の思想を混同している人はたくさんいる。それほど申し送りの誘導性は強くて重い。僕は巡り合わせ的にそういう重い思想を持った人物にいっぱいあってきたのだが、賢い人でもそういう死角には切り込めない。だって、そんなことしたら自分が壊れてしまう。

 

個人的には、壊れてみてなんぼという気もする。

 

あともう1個あったような気がするのだが、どれだっけ。

 

まぁ、どれだけ書いたって書くことは尽きないし、書けなかったこともそのうち書くか。

 

では。ラブレターを送るのでここまで。

 

真実の自分でありますように。

 

おやすみなさい。