人生と遊戯の異同

 

 

 

なんだか食べたいものがない。きゅうりの漬物も良い感じで美味しいし、一応食べてはいるが食べると眠くなるしなぁ。いや、別に寝たければ寝ても良いのだが。ねじを緩めるのも大事。

 

漫画読みながらゲーム実況の狂人やり込み動画を見ていた。ツバサクロニクルを読んでいたのだが、ホリックの方は終わってないのにこちらは完結しているのか。願いと縁と因果と。実況動画は、ドラクエ1から8を順番にやっていって1度使った道具・呪文は次作以降で使わない縛り。詰将棋みたいな思考と乱数に頼る試行(苦行)と。

 

別作品で時空が繋がって居るのは小説にもあるよな。ぱっと思い付くのは伊坂さんとか森見さんとか。

 

ちらっとポップアップしてきた情報によると、住んでいる市も大雨警報が出ていたらしいが、夜家を出た頃には小降りになっていた。透明のビニール越しに見上げる雨粒って綺麗よな。どれくらい完全な円に近いのだろう。

 

スーパーで当たった男性店員さんはとても優雅に仕事をしている。コンビニの店員さんはなんとなく男女問わずきちんとしている人はきちんとしているような気がするが、空間認識苦手なんかな。移し替え用のかごも十分大きいのだから、移し替えた後にのかごの中で入れ替えないように通すって試行によって訓練すればできそうだが。いや、これは能力ではなく意識の問題かもしれない。イライラした訳でもないからどうでも良い。

 

昨日の自分の見解と今日の自分で議論する。これも別に正しさに至ることを目的としている訳ではなく、単なる遊びのようなもの。ただ、よりしっくりくる解釈が見つかると気楽ボーナスが付与される。地味に大事。

 

とりあえず、知識をやり込みみたいに考えないといけないのは、僕が積むことを是とできないからであって、朝一に、我ながらややこしやっちゃなと思った。結果的には積んでいることと同じだとしても、自信にはならず重くなる。もちろん重さは安心になるから一般的には良きことだが、僕は精神上のフットワークの関係で重さもあまり良いものだとしていない。

 

人生をゲームと捉えらないのは、何か区別される要素があるのだろうなと、お風呂読書の後にシャワーを浴びている時に発見。思考は発見するものなのかもしれない。

 

書くまでもないことだがまずは回数のこと。ゲームの概念には試行回数が理論的には無限であるということが含まれている。要はやり直しがきくかどうか。甲子園もトーナメントは1回としてもチャンスが3回はあるし、野球自体は何回でも可能。

 

あと、地味だが強固なものとして、人格から離れることができるというものもありそう。

RPGとか疑似人格を自分で任意に設定できるし、じゃんけんとかパネポン(やったことないが)で負けても悔しいだけで人格は傷付かない。

 

やりたい放題できるかどうかも考えられるが、ほんとになんでもできる訳でもなく範囲の程度なだけだから必須の要素ではない。

 

たぶんこの2つの要素によって人生とゲームが分けられている。

では、これを踏まえて、僕は何故人生をゲームに捉えられるとしたのか。

 

まずは回数の話。確かに命とか初期ステータスとかで言えば変えようがないように思われるが、人生を過ごし終えるまでには必ず通さないといけない「生活」というものがある。

 

僕が「生活」の概念を意識化できるようになったのは好きな人の諸々のブログとか関わった演劇のおかげであり、とてもラッキーだった。今度の来月テーマは屠畜で、あれま、誰かさんとも繋がっておるらしい。来月に公開らしいから必見だ。タイトルは「WILD THINGS」(怪物たち)だったか。この怪物という表記は、何気なく命を貪ることができる人間が怪物ということなのか、命が尽きる間近の動物の怪物性とどっちなのだろう。前者だったら「銀の匙」(漫画)を思い出すし、後者だったら、目の前で不慮の事故で命が尽きてしまった飼っていた白猫を思い出す。寿命だと徐々だが、自己だと唐突に別の存在になってしまう。

 

賢くて懐っこくてとても毛並みが綺麗で気持ち良かった(あ、ちょっと泣きそう)。

 

宣伝はさておき。

今回劇評公募はないらしいが、観たらnoteの方にでも個人的劇評を書くのだろうな。

ノローグ形式は終わりなのかどうなのか。あと、好きな人は写真屋としてだとローマ字でそれ以外だと本名(らしきもの)表記になる模様。知らんけど。

 

そうそう、「生活」の話。

生活の概念にも、当然ながら複数回繰り返されるという要素が含まれている。生活に含まれる、仕事・職業もそう。やり直しはできないにしろ、試行回数だけみればゲームどころではない。例えば、死ぬまでにあと何回日記を書けるのか。だとややこしいな。あと何回誰かに会えるのかとか、もっと分かり易いのはあと何回料理を作れるのか。

 

これにゲーム性がないとされるのは、2つ目の要素と組み合わされて初めて成り立つ。この人格での人生の一回性。生活上のステータスは決まっていて、あと何回できるのかではなく、「あと何回しなければならないのか」みたいな縛りプレイのモード。だから仕事も生活も消費されていくものだ、みたいな気分になる。

 

心理学で言うところの、コップに半分水が入っている状態をなんと評すかみたいな話。行動経済学でも思考消費という用語を見かけた。思考には時間とリソースを消費すると設定している。

 

ほんまか?

 

発達心理学はあまり読んでいないが、最初に規定された人格、特に対人形質はたまたまそれが生まれたときに接していた生活圏の環境に依存しているから、それだけだとほんとうの初期値ではない。というか、僕がこの辺りを読んでいて思ったのは、自分がいま捉えている自分の人格って、別に規定値ではないのだなというところ。もちろん、ゲームみたいに再度1から設定することなぞできないが、操作性ないし、試行可能性があるもの。

 

どうだろう、人生もゲーム性を帯びてこないだろうか。

あと、化学的な知見でも、どの分野も世界の真実に辿りついてないみたいだから、人に迷惑をかけない限りは任意の設定で良い。

 

僕の試行としては、対人において相手は僕が見ている程は僕のこと見ていないし、忘れるから割と好き放題していいのだろうなとなっている。この人格で見たときに、僕が言ったこと覚えていたら、お、となるが、もともとそういう世界観の場合もある。

 

でも、現実的なところでここの文章を書いている人格のままで振る舞うのもいけない。

まぁこれは良いや。

 

人生の醍醐味は分かっていなくても生きていかれるであって、分かっていることが財産になっている人はもうそのままレールを進んで行くしかない。僕もこういう風に生きられる人格だったら良かった。(ほんまか?)

 

合理的とか、論理的とか、常識的とか、これらは何か客観的な正解を導くものではなくて、当人(学問であれば特定の分野)のそれぞれの用途に適しているかだから、その中身を考えないといけないなぁと想う。

 

僕の経験則だが、きゃりーぱみゅぱみゅ似の可愛らしい人の浮気相手になったとき、何か自縛的なものを感じた。いちゃいちゃしただけで致してはないが、パートナーのことも知っている(というかこちらの方が関係長かった)。結局結婚したとのことだが、ほんとに目的に適ったのかなというのは気にかかる。

 

これは、2人目に致した人とも繋がっている。時間的にはもっと前になるのだがこれも浮気相手で、この人ももともとの人と結婚しているが仕合せになれたんかなぁ。

 

両者、別に人生上の目的は聞けてないが、もともと目的がなく、今から逃げたかっただったらともかく、どちらも賢しい人だったから、ズレに気付かず一生をやり過ごせるだろうかということが気になる。

 

こういう感じで、僕はもともと客観的な正しさを持ち合わせていないから、あくまで相手の中の理で考える。ここでいう理は、目的と手段の一致。まぁそもそも自分の理をきちんと設定できている人は、ほとんど居ないと言っても良い。何かの事象に対して反応した後の理は、屁理屈というか後付けだろうし。

 

ちなみに僕は、目的と手段という理は採用していない。だから、単なるお客さんのラッキーという言葉にふわふわしている。ラッキーだと評されることを目的として挙動するって無理だから、ただ自分を生きてたまたまそういうことがあれば良かろうなという感じ。

 

あと、関係性を気にしなくて良いとなると、不合理な気にかけが解放される。

 

生活圏外の人に対する祈りは一般的な理に適ってないよな。

あくまで言葉でしかないし、言っているだけやろと評される方が良い。フィクション的に付き合われても本気にするのだが、それほど人って真実として言葉を扱っていないらしい。

(メンヘラ傾向の人の方がちゃんと言葉と自分を一致させている感覚則)

 

まぁ虎の威を借りるみたいに、威を借りられるのが言葉の衣だから、着太りする分には問題ない。でも、僕と接する時には全裸の真実の言葉であって欲しいところ。

 

あぁ、一般的には言葉の扱いはゲームとしてのゲームと同じなのか。

なるほど、現実のだいたいを納得した。

 

おやすみなさい。

 

よきバーチャルを。