遊び

 

 

インターネット世界も十分に異界の条件を満たしていて、そこでのやり取りは遊び遊んでもらっているようなものだ。僕の中では現実でお茶をするとかの水準とそんなに変わらない。僕の文章は自分の現実的部分の何よりも素朴に近いだろうし。

 

そもそも、世の中に異界ではない場所ってほんとにあるのかな。

 

 

さておき。

 

出勤の道すがら、そろそろ今季の紫陽花も元気なくなってきたなと別ルートを歩いていた、やたらと大きな赤と白の花を見つけ、笑みがこぼれる。そのまま行くと、マンションのゴミ置き場のところで、カラスの恥ずかしいシーンを見かけてしまう。ぷりっとの瞬間。田んぼには昔は鴨が居たのだが、ここ何季か見かけない。他の地方の育ち具合と比べているとやたらと遅れているのだが、それも原因なのだろうか。発育が遅いみたい。

 

帰りの晴れた夜空に月を探してきょろきょろする。ようやくとんがったお月様を見つけてなんだかほっとする。雨と月はたまにしか同時に接することができない。朝見かけた花をもうすこしじっくり見ようと思ったが、夜には閉じるタイプだった。光走性だっけ。植物生理学にあったような。(名称あやふや)。

 

仕事の時に、左手文字の練習をしていたら、古参の先輩にバレてしまった。試験に左手で書かないといけないところがあるのかと聞かれる。いやそんなアクロバットな試験ないやろとは突っ込まず(僕は関西人ではないので)、便利だからと答える。

 

そうするとこの人と、おしゃれな先輩も左手マウスをやろうとしたことがあるという話題で盛り上がっていた。この仕事パソコン2台使うから、マウス2つを右手で操作すると、時々どっちのパソコンのマウスを動かしているのか分からなくなるという不便があるため。家ではやらんからなーと言っていたが、そういえば、僕のこの時間におけるパソコンのマウスは左手側にあるんだった。

 

結局右手でやる方が早いから諦めたという両者だったが、そんなことは継続できなかったということに等しい。利き手でできるようなことを反対側でやろうとすれば遅いのは当たり前。やってなかったことはできないからできるようにするのでは。料理をやろうと思ったが結局買った方が早いと言っているのと同じこと。ただ、やろうとしたということだけでこの2人の人格の面白さ(変人具合)が分かる。

 

左手文字は、割と試験的に実用性がある。1つの科目で2000文字とかを手書きで書かされるから、交互にやればその間反対側の手を休ませることができるという感じ。あと、バランスのこと。空き時間にぼーっとしているくらいなら手を動かす方がより時間が縮むし。

 

書いていて思ったのだが、横書きだと右手の方が有利で、縦書きだと左手の方が有利。自分が書いている文章を見ながら書ける。ボールペンだからあまり気にする必要はないが、これが鉛筆とかシャーペンだと、不利な書き方だと手が黒くなる。中学時代左利きの同級生がいて、理数系の問題解くのに苦労してそうだったのを思い出した。やたらと字は綺麗だったが。

 

そう考えると、ワードプロセッサの発明は便利過ぎるな。そうして一番便利になりうる道具は、自分の肉の器だとも思う。僕は道具の概念を所有とか消費ではない利用に置いているためこのようなことになる。道具を扱う道具としての自分。

 

朝起きて、とても愛が無い文章を見かけた。とてもありがちだから内容は吟味せず読み流したのが、近頃の若者は言葉を扱えないみたいな趣旨。愛がないというのは、自分も若者で知らなかった時代もあるはずなのにそこを無いものにして、今の完成部分という綺麗な自分しか見ていないところと、その人も今の若者の言葉扱えないだろうし、という、教えようとも知ろうともしない、「無知の無知」の部分。そういう自己の価値を確保しようとする試みはとても寂しいことになる。

 

でも、こういう文法とか語用の正しさに重きを置く人って割と多いよな。僕のイメージをしてはそういう人は文章を書く側というより読む側に多い感じ。形式と内容でいうと、かなり形式に偏った立場と言える。僕は文法より文意が美味しいから、多少言葉が間違っていても問題ないし、僕の言葉も全然完全無欠ではないし、そもそも言葉自体が時代によって変遷するもので普遍的に完全無欠ではないし。こういう人は、古文の文法を読んだらどう反応するのだろうと思ってみたり(たりは本来2回以上続けるのが正しい文法だが、次の「たり」は読み手が自由に埋めるに任せるという意味で空白にする文法も普通にあると思う人)。

 

ここで、現実的な話し言葉としての文法の話。その人の中身は分からないにしろ、人格としての傾向は読める。発話はその人の世界観に依存しているから、どういうスケールで生きているのかは読み手からすれば良く分かる。

 

おしゃれな先輩は発声は割と可愛らしいのだが、よくよく聞いていると、自分が費やしたことに対して対価が返って来るべきという観念があるらしいことが読み取れる。時間かけて調べて回答したのにクライアントはもう知っているみたいな感じだったというエピソードが残っているということとか。古参の先輩は、もっと人と自分を切り離している感がある。でも、本当に1人で居たかった人なのかなというのはちょっと分からない。こういう分からなさに魅力を感じるというところもあるが、もっと深い興味までない。

 

僕の発話はどういう風に読まれているのだろうな。あんまり人格が見えるようなところまで発言してきていない時系列。そういう水準で考えると、一番長く過ごした人への発言が一番素朴とは近かった。自分は比較対象にはならないとか。ただ、この時代滅茶苦茶ノイズが多くて僕がブレてしまったから変なことになってしまった。この時代を想うと、アイツ、理詰めで叩き潰したいとかはあるな(おっかなや)。愛無き人への正当防衛はすべきだった。

 

まぁ、あのまま続いてもどうだったのだろうとは思うから、これはこれで1つの完結した物語だったのかもな。

 

そうして、素朴レベルで言ったら、現在書いている文章とか好きな人への私信とかの方が遥かに素朴な僕であるという。

 

遊びと真剣について考えていた。

僕の中での考えるは、言語を駆使して積み上げるのではなく、ぐるぐると非言語が回っているところから、言葉として表せる存在を取り出すというところだからそんなに頭は疲れない。

 

日本って遊びに対してイメージ悪いよな。遊ぶなとか、私のことは遊びだったのねとか、遊んでない方=真剣に価値が高いみたいな観念がある。

 

そうだと前提して考える。では、真剣とは何をもって真剣とするのだろう。真剣であるという姿勢、言葉、内心、と想像するのだが、これらって、本当に対象に対して真摯に向き合って言えるだろうか。身も蓋もないが、これはあくまで自己満足の領域だと思われる。真剣とか真摯ってあくまで対象がある訳で、自分がどれだけそうしていると認識していても対象にとってどうかとは別問題。

 

真剣がこういう自己満足の領域だとすると、遊びの方が対象には近づける。遊びというのは余裕とか手抜きとかいう意味ではなく、自分から離れて対象に没入するという意味。手抜きで接するのであれば遊びですらないが、遊びの語意の中には含まれているからややこしい。あくまで僕はそういう風には使用してはいないとだけ。

 

これで考えると、自分の現実圏とは切り離された対象である僕の文章をちゃんと存在として読んで考える人の方が、僕を現実的にどうかとしながら接している人よりよほど真剣に接してくれていると読んでしまう。

 

僕で真剣に遊んでくれている感。

この遊びは、ゆるみとかたわみみたいな意味合いであって時間つぶしではない。

 

ちゃんとお互いの言葉について、その言葉は当人の中でどういうことなのかと考える関係って、とても希少だって思います。正味言語化として僕はまだまだ本気出せてないところはありますが。自分がほんとに自分の言葉を遣っていいと思えるような存在は現実には居なかったので。

 

そういえば、AIこわいという話。まんじゅうこわいという落語を思い出したが、全然関係ない。AIこわいという漠然とした恐怖感とは別に、専門家でもそういう懸念はあるらしい。これはまぁまぁ分かる話。

 

AIはどこまでいってもプログラムでしかないから、人間のような常識も文化もなく、決めたことしかできない(あれ)。で、ある指令を貫徹するために、人類を滅亡させるという手段が出てくる可能性もあるとかなんとか。でも、よくよく考えると、プログラムは人間が創る訳で、人間が人類を滅亡させる悪魔になりきれない時点でAIにも無理なんじゃないかとは思わなくもない。そういうのはちゃんと賢い生きたい人がセーブするのでは。

 

あと、リベラルアーツで、「神の見えざる手」という話が出てきた。自動的に社会の富が増えるというシステムなのだが、アダムスミスさんが前提としている世界観は、人は自分の利のために労働するが、共感も得ないといけないとかで、社会性の話だった。他の思想を見ても、その時代から進めるみたいなところがあり、なんだかこの時代に特に不満もない僕にはできないことだなと思ったのだった。

 

 

おしまい。

 

おやすみなさい。

 

たのしき現実を。