運勢

 

 

 

目が覚めて身支度をしていると部屋の外で何やら物音がする。外に出てみると匂いが違った。あぁ、掃除の人が入ったのか。不動のカナブン氏はいなくなっていたが、壁に張り付いたカメムシ氏は掃除人の目に留まらず生き延びたらしい。潜在のふき取りが甘くて滑ってこけそうになった。

 

随分と涼しい通勤路を歩きながら、出自不明の穏やかな感覚。言語化を試みると「時間が余っている」ということだった。ふむ。別に何もすることがないという意味の暇ではないし、この余った時間で誰かを寝かせることができるようなまとまったものでもないが、あくせくはなっていない。なんか凄いな、我が事ながら。

 

仕事では第一お客さんが、〇田さんに当たってラッキーだって言ってくれた。曰く、質問が当人の中で固まっているときの相手は誰でも良いが、今日は何を質問したら良いのか分からなかったからは永〇が良かったらしい。他の人がどうやっているのかはともかく、とにかく嬉しかった。この人のおかげで1日ふわふわした気分で過ごせたし、こういうのが良いのだなと認識できた。

 

僕がハッピー=幸せ=幸福にしっくりこないのはこれが状態に向けた言葉であること。状態の概念は今だけに留まってないし、便利とかと近くて失うと困るものなのではという感じがある。基準を更新する概念。

 

で、ラッキー=幸運が良いのは、対比するのであれば状況に向けた言葉であること。これは今この瞬間の出来事への邂逅であって、基準は更新されない。幸運であることによって基準が更新されて幸福に至るということはあるのかもしれない。

 

昼休憩の時にこんな言葉を発見していた。これで言ったら、僕のステータスは運に全部振りなのかもしれないなとか。幸せであるとは言えないが運が良いであれば胸を張って言える。

(運についてはまた後で)

 

なんてことを考えながら一服していると、ふと地面に目が向いた。地面には実に色んなものが落ちている。未開封らしき避妊具だった。ちらっと見ただけだが、カラフルな色合いの中に、「表」。「女性側」と書かれておりとても親切だ。開くときに文字が読めるのかはともかく、文字が入っているのは見たことなかった。

 

そうして、化粧水を補充するために東急ハンズに行ったら愛媛の物産フェアが開催されていた。珍しいやら懐かしいやらでふらふら入ると、今治タオルとか焼き物とか実家圏とは全く関係ないのに楽しい。陶器ベースや真珠ベースの装飾具もあって、プレゼントしたいなと衝動が起こったのだがそもそも相手が居なかった。いや、これは寂しい話ではなく、送り物とか全然しないような人物だったのに、どうしたことだと思っただけ。これってたぶん、歓心を買うとか、関係を維持するという目的を排してみれば、僕はもともとこういう奴だったのだろうなという話。

 

日記をプレゼントにできる為にはまだまだ修行が足りない感じだがそういう意識で書いている風もあるな。料理との類似としての文章。

 

あぁ!

 

そうそう、きゅうりの湯通し浅漬け作った。湯通しよりも長く鍋に入れていたためぽりぽり感はなくなったが、きゅうりのキューちゃん味が出てこれはこれで。味付けはゆかり、昆布茶、砂糖、鰹節、優しいお酢。きゅうりの可能性が拡がる。

 

画像も貼ろうかと思ったが、器の色を間違えたため断念した。家用の食器もまともなの選ぼうかとも思わなくはないが、人に見せない限りなんでも良いという気もしている。で、これも1人では不要なだけであって、誰かとの生活になれば色彩も良い感じにしないとなというだけ。1人の空間で色味とか整理整頓とか全然気にならん。だって、何が何処にあるかはほぼ把握しているし。物はそんなにないから、どの本が何処にあるかと同じような意味。「女の一生」が虎視眈々と読まれるのを狙っているのも分かっている。

 

幸運の1つ。

 

自分が読もうとする本に先に書き込みや線引きがあるのは駄目だという人が多いだろうが、僕はこういう前の所有者の痕跡が大好物。古書の醍醐味だよな。

 

芸術学を読んでいたら、金儲けを目的としたら芸術性は消滅するというフレーズがあり、そこに線が引いてあって、鉛筆での書き込み。「現代では価値観が変わってきているのでは?」

 

そうかもなーだが、金銭価値はあくまで副次的な価値にしないと歪むのではという気がする。何を表現したいのかの前に何が売れるのかになると、芸術家としてはどうなのだろう。職業作家であればありうるものさしだろうけど。

 

こういう巡り合わせがいっぱいあって僕の人生はとてもラッキー。

いまの自分に合った本の選定とか、秀逸過ぎて困るくらい。

 

可もなく不可もないルックスと、貫禄はつかないが健康な体と、偏見がない精神で生まれたのもそう。貧乏だから幸福ではないが、やっぱり僕の人生はハッピーである必要はなさそうだ。たぶんお金が必要だったらそういう巡り合わせがあるはず。

 

幸福の概念に付属するのは物体と状態であって、それらは外付けなのだよな。

もちろんそれで満足できる人は文字通りの幸福な人ではあるからその人生で良い。はず。

 

やれやれ。

 

ホリックを読んでいて、選択という概念がピックアップされているのだと思った。基本的な世界観としては意志よりも運命が重いのだが、その間くらいに選択という任意性があるようで、ないような感じ。

 

素朴ないまの僕としては、選択ってそんなに大事なことなのかという感じ。より良き未来のために情報を集めて吟味してっていうのが一般的な選択論みたいなのだが、ほんまか?

 

僕は自分が意志で選択したからここまで穏やかになれたとは思っていなくて、良きように勝手に来たのだろうなというくらいな程度でしかない。正しい選択をするためには、本気で確率を計算しまくるか、未来を知っているかという試行と予言が必要で、レビューを見る時間を費やすことではない。

 

確率を計算しまくるのは「AIは人を憎まない」によると実際に存在する人達で、「超予測者」と呼ばれているらしい。

 

僕としては、選択は運とか縁の範疇であって、意志でどうにかできるようなことは特に人生上の意味はないのではという感じ。自分の選択の帰趨を気にしなくて良いって最強の自己肯定。やっぱり好きな人を好きになったのは僕にとってはとっても意味があったらしい。

 

まぁ今後はもっときちんとプレゼントを渡せる人を選べば良いんでないとは思っている。

てらいが無くなった自分のまま接することができる人って居るのだろうか、というのはともかく。

 

原始仏教も、「人の妻には近寄るな」と言っているし。

 

原始仏教の教典については、やたらと疑義が起こる。いや、ブッダさん社会関係から完全に離れたところに居たはずなのに、なんで社会関係において良きことみたいなことばかり語っているのだと。

 

もう実際に体感できる現実ではないから予測しかできないが、記録した人が捻じ曲げたのではというところ。たぶん一般論としては語ってなかったはず。

 

そういう社会関係においてはという括弧が付いた言葉。

と考えると、「人の妻に近づいてはいけない」というのは、妻という女性は人間の前に夫の所有物だからという観念がありそうな感じはある。いや、別に不倫を推奨している訳ではありません。まぁ、別に社会的な非難を受けるような行為でもないと思うが、配偶者が居るという社会の承認を受けながら隠れてするのであれば、何かの反動を受けても仕方ない気もする。

 

世界は鏡でしかないから。

 

僕はずっと写った像みたいなところで生きてきていたが、写す像として生きるようにできてきた。まだ全然遅くはない。

 

無意識の説得も上手くいっている模様。

 

では、この辺りでおしまい。

 

おやすみなさい。

 

ラッキーでありますように。