あとは決めるだけ

 

 

 

ここ何日か蒼(水まくら)の高さが合わず、首がやや痛い。いっぱい注ぎこんでもしんどいかなと思って遠慮していたのだが、本日は試みに許容量の限界くらいまで注入してみている。だいたい毎日水を替えているから、ちょうどいい高さになるように留めるということはできないのだよな。まぁ調味料と同じでそのうち良い塩梅が感覚で分かるはずだが、まだまだ練度が足りない。

 

本日弁当を食べていると、隣のベンチに座っている自転車を傍らにおいた初老の男性に鳩が群がっていた。鳩を見ると、はとぽっぽに無視された女の子のイメージを思い出す。これは良いのだが、さらに時々、10年前くらいに某県の町田駅だったかで、首が取れたはとぽっぽを啄むカラスの像が思い出される。グロテスク。地元動画では、カラスに追いやれている鷹? が深追いして来た1羽を返り討ちにした動画あった(見てはいない)。

 

グロテスク。グロテスクってなんだろうと思いながら、僕の日記にある自分の解剖ってある意味、愚痴とか悪口よりもグロテスクなのではないかと思い至った。愚痴とか悪口とか正しさを武器に誰かを非難することは人間の皮を被っているため、人間的だ。僕のはその皮を剥いで剥き出しにしている訳で、生生しい。(まぁ文体のおかげなのか、あんまり生生しい印象はないが)

 

グロテスクの生生しさって、おそらく自然の因果的光景であり、かつ、人間が人間であるために隠そうとしているものなのだろうなと思う。猫は可愛いが、我が家の猫はモグラとかネズミを狩って、しっぽとか少しの骨だけ残してお腹に入れていたし(餌を与えてなかった訳でもない)。

 

この流れで最近のお弁当事情を書く所業は気分悪くならないだろうか。人がものを食べる行為も結構生々しいことだが、文化的という人間の皮があるから大丈夫に見えるだけ。最近のご飯とても美味しいのだが、レシピは省略しよう。

 

人間が何故多様性を持つようになったのかと考えていたのが昨日か一昨日くらい。美的感覚を持ってしまったからではないかと思った。自然淘汰の合理性からすれば、一定以上に増えて有能でも有用でもない人材って間引きして然るべきはずだが、ここに倫理感が生まれたのは、その観念を美しいと思えたからなのだろうなとか。倫理という美観がある以上、自分と相いれない人も人だから、淘汰することができない。そこで、言葉でルールを作って多様性に対応しようとしたのが法律。どういった内部的価値観があっても最低限守ることの線引きをするという意味のルール。

 

ちょっと飛躍しているが、人が人たる所以は、道具とか思考とか言葉よりも美感だと思った。これは、自分の規定値の外へ向かう志向性であり、好奇心ともちょっと近い。美感は美しいものだけはなく不思議なもの、醜いものに向かう、現実とは関係ないところにおけるものさしのこと。もちろんこんなの哲学的な定説でもないから、どんな哲人の本を読んでも書いてない。

 

人ってこういうところがあるのが良いよなと思っただけ。

 

僕が最近ほんとに嫌だなって思うこと。何回も書いているが実感として納得した。職場の女性上司と先輩男子の雑談で、今日は何人感染者でしょうみたいなことを話しているのがとてもしんどい。おそらく閉塞感の解消としての代償行為なのだろうなというのは理解はできるのだが、そこには、熱出したり節々が痛んだり味覚障害になっていたりする人が具体的に居る訳。具体例も知っているのになんでそんなに軽いように話せるのだろう。

 

と、思うと、おそらく戦時中の一般国民の感覚と近いのかなって想像する。数が多すぎると人って判断できなくなるというのが「AIは人を憎まない」に書かれている。ほんとに具体的な周りの人物以外は、その他「たくさん」くらいにしか捉えられない。義務教育で無限大までの数は知っていても、その数はあくまで抽象的な数でしかない。

 

中学時代、日本語表記の、一、十、百、千、万、億、兆、京、ガイ(漢字が分からない)、、を調べたなぁ。最終的には無量大数だった気がするが、1の後に0が何個あるかは覚えていない。人間の把握できる数と、思考できる数には差がある。

 

 

なんだっけ。調べていたら文章の流れが分からなくなった。無料大数は0が68個だって。

 

あぁ、そういえば僕が人に忘れられても良いなって思うのは、僕の3次元的な振る舞いは全く僕自体と近くないからかもしれない。こんな情報を覚えられていたところで当人にとって都合が良い思い出になるだけ。僕がどういうカタチだったか、どういう事務情報だったか、それを記憶されていても、やはり、そこにー僕はいませんーとなるな。

 

ただ、しめしめというか十分だなと思ったのが、誰かの中に僕の文体が残っていることが読めること。文体は情報でない存在であって、存在として居残るのであれば特に重さはないし、0次元な感じ。忘れるとか忘れないの範疇のものではない。

 

 

二度寝前に、愛とお金について考えていた。ものすごい文字数だったため完全にスケッチはできないが、僕はどちらの概念についても一派論より厳密に捉えているみたい。

 

お金は価値は分かるが、ほんとに潤沢にあったら満足できるのかとなると、なんか違う気もする。お金があってできることって、ほぼ消費ではないか。いや、お金があったら世界にばらまくみたいな人が居ればごめんなさいだが。

 

あと、愛も、何か引力ないし条件ありきみたいな受動的に捉えられているが、この文脈だとお金と同列よな。僕は条件がなくてもするという意味で、能動的に捉えており、愛の本質は考えることではないかとしている。ここでの「考える」は一致することは在りえない対象へ接近しようとすること。

 

やれやれ。

 

村上さんの小説の感想日記を見かけたが、視点が全然違って面白かった。読み手の枠なのだろうなと思わないでないけど、フェミニズムとか多様性に配慮しているとか女の子しか出てこないとか、そう見える人も居るだなぁって。個人的にはそんなこと全く配慮してないというか、考えて書いている作品ではないように読めるけども。考えていたら中頓別問題は出なかっただろうし。

 

まぁ、読み手に開いているのが小説というもの。

個人的には自分に分からないように採り入れるのが是だと思っているが。

 

「もの」といえば、読んでいる本の複数が一致して語ってくる。「もの」とは何かという本はともかく、芸術学も、もの観の分類を書いてくるし。

 

「もの」をどう捉えているかって、個人に引き直すと、まんま現実感とか世界観になるよな。

 

触れられるもの、五感で感知できるものがものであるとするのは基本的には無理だから、一般的には自分がものであるとしているという自分ルールだと思われる。

 

ここで1つの問い。

言葉はものなのか。

 

触れないし、文字は見える、発話は聞こえるが、実在としてものとするには心許ないもの。

 

僕は当然だがものとしている。ただ、この存在感は文意とはちょっと離れがち。

文意をそのままその人として捉えるって、ものとしているというより、そう読みたいだけなのではという感じ。

 

言葉が存在している次元はかなりあいまいだから、相手の言葉も自分の言葉もかなり恣意的に操作できる。操作できないものを存在として捉えるのが手っ取り早いと思われるが、操作できないものは時間で動く。

 

ここから先の言葉はまだ持ち合わせてないらしい。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。

 

ものではない自分でありますように。