不完全燃焼

 

 

なんとなく心身にいつもより重力を感じる。思い当たるところと言えば解釈が都合よいことも幸せ認定していて、仕合せになるべきではないという反作用。解釈によって誰かとの現実が変わることは今のところないのだから良いじゃん、それに幸せも求めてないしと反論を試みる。

 

もしくはまったく関係ない寝不足。水まくらの丁度良い高さと冷たさを試行しており、昨日はちょっと薄くしすぎた感。蒼は扱いが難しいが、そこも良き。

 

仕事は2回目を打った人が発熱して人が少ない。忙しくて一瞬で通り過ぎてしまった。

ちなみに、僕はこれについては、当人が決めればそれで良いという立場であり、実際のところどちらでも良いと思っている。なんだか、どちらにせよあんまり変わらないのではというのもある。個人的には別にもともと不特定多数と会合したいとかないし。情報と陰謀めいたものが錯綜していてヨクワカラナイ。

 

仕事でいっぱい人と通話したテンションで、母親に架電をした。米の催促。僕が人でなしなのは、別に米くらい自分で買えるが、母親としては息子に食料を送っていることが「愛っぽい」挙動で気持ち良いんでしょと思っているところ。たぶんこの対価があるから、定時連絡を求められるとしている。これは意識というよりは無意識のバイアスかと思うが。

 

そうして、こういう価値観を共有していない人との会話だと雑談くらいしかできないなと思った。暑いとか、このご時世とか、個人的には真面目にどちらも僕に影響を与える現実ではないのだが、一般論的には大変やけん(方言)。あと、こういった雑談的会話において、人って相手の話全然聞いていないなとも思う。僕はこのご時世のニュース全く追っていないから厳密に聞いたらてきとーなことばかり発言しているのだが、てきとーに話を合わせているだけでなんとか埋まる。

 

まぁ、認識としてもずっと留まっていて何か発散したいだけなのだろうなという感じ。要は、相手は誰でも良い。ボロクソ言っているようだが、職場で聞いていてもあまり変わらないし、そもそも雑談とはこういう機能なのではという気がしている。

 

ネットの文章ないしつぶやき層が理想的な読者に向けて書かれているという言説があった。確かに内的世界がほとんど止まっているようなアカウントは多々ある。僕はそのあたりが詰まらなくなったため、今は好きな人のつぶやき以外は見ていない。

 

もしかして僕も文章も含まれているのかも、と一瞬思った。しかし、僕の文章における理想的な読者とは、僕に迎合しない人だし、理解・共感・同情、どれも求めてないしそういう風にきちん書いているつもりである。いちおう完全な他人が言葉を読んだだけで意味を追えるかみたいなところも要素としてはある。最終的には忘れがちだとしても。

 

でも、現実の雑談と総合すると、人は理想的な他人を求めているという意味では現実とネット世界は一致しているような。僕の理想的人物は僕の世界において都合が良い登場人物ではなさげ。

 

 

さておき。

ご飯の話。

 

肉体のご飯から。大量の食材を仕入れた画像を見て、家族という繋がりの関係には今のところ興味はないが、家族という集団の食生活を運用するのは面白そうだというアンテナが立った。配偶者も子供も他人であって自分の好みが通用する存在ではないし、栄養状態も違う。変数が増えまくって試行が楽しそう。

 

僕は好き嫌いがあること自体は人それぞれで良いと思っているし、その食材を食べなきゃいけないってこともなく、栄養価は他で補えるだろうしという立場。自分だけに作るときには限定がなくてとても自由なのだが、他人の肉体まで管理するとなるとなかなか。これが幼少期に外食で育ってきた相手になるとほんと時間かかるだろうな。

 

なんの話だよ(セルフツッコミ)。

 

本日のメインは、やや熱したフライパンにオリーブオイルを入れてチューブニンニクを加えて爆発させ、豚肉の切り落としを炒める。そこにキャベツとぶなしめじを加え、良い感じになったら少し水と酒と味噌と醤油とミニトマトを加えて水気が無くなるまで熱する。これだけでとても美味しい。サラダのレタスをちぎったりレンチン目玉焼きの用意をしたりを並行していて豚肉がやや硬くなってしまったため、こういう風にならないように並行できるように要試行案件ではある。

 

なんだか、当たり前とズレていることは悪だという常識を植え付けられてきたから、ギャップがストレスみたいなことになっていたが、ギャップがあるからこそ人間同士であるという認識になっている。相手はどう認識してくれるかは知らんけど。

 

精神のご飯。

 

どれだけ日中忙しくても、お風呂読書時間があれば1通りの読書量が保たれるようになっている。僕の素。

 

法律学。六法と呼ばれる範囲はカバーしている。法律には大まかに言って、公法、民事法、刑事法というのがあって、という話はあんまりおもしろくないのだが、一般的なオトナでさえこの分類が上手くできていない。これはこの界隈のうさん臭さにも通じてくる。知らせない方が都合が良いよねっていう共通認識があるのではという感じ。

 

あまり知らない方が権威を保てるもんな、という人間味を感じることでより読めるようになってきているという不可思議。

 

これは歴史にも通じていて、どの時代の権威も同じようなことやってるわーというのが「大学の歴史 中世」。

 

なんか記録として書くのはとても面倒だとなり、僕の素のラインナップは強制終了。

もともと記録として書いてないから、こういうのは駄目っぽい。伝えたくないし。

 

ピックアップして。

 

「AIは人を憎まない」は、AIの発展に警鐘を鳴らすというより、AIの構造を把握できるくらいの合理的人間になるべきみたいな話っぽい。AIと比較した人間の判断の不合理。条件が増える程確率が高いとなるが、本来は条件が少なければ少ないほど確率が高いとか。

 

やれやれ。

 

勉強できる人と勉強できない人の違いみたいな本をブックオフで立ち読みした。できる人ほど2回目は読まないみたいなことがあり、自分の正しさと照合しているのだろうなーと思いつつ、ちらっと目次で読んだ、日本語だから読めるという思い込みというフレーズが気になっている。

 

自分がきちんと厳密に誰かの文章の意味を読み取ることができているのかって、100%は絶対に在りえないはずなのに、同じ言語圏だからきちんと読み取れていると思い込んでいる。これって国語教育の罪だと思われるのだが、ふつーにそういう風に外の文章を読んでいるよな。ニュース記事とか。

 

僕はニュース記事には人間の体温がないから全然読まない。たぶんフリーライターとかが書いていて全く客観的でもないから目に毒としている。別にそんなこと知らなくても生きていけますし。

 

こういう文章に感染されると、自分の文章(言葉)も客観的だって思い込んでしまう。

客観的であるというのは、現実=物質みたいなものであるということ。

 

人ってこの辺りの分類が雑いと思う。

ここを分けられる人は、1回でも暗がりで自分ことを考えたことがある人で、こういう人にとって言葉は伝達する道具という機能だけにならない。

 

僕の文章は、変な話、お裾分けみたいな感じで、これを読んだ人が少しでも楽になったら良いなくらい。なんなら、日記に記録されていない言葉の方が圧倒的に多いし、上澄みの片手間みたいなところもある。

 

書けないけれど考えられる領域の方が広い。

あれ、でもこれって普通のことか。ネガティブでも卑猥でもないところ。いや、ネガティブはともかく卑猥はどうだろう。

 

はい、終わり。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。