開拓

 

 

水まくらが届いた。少なめに入れて昼寝に使ってみたが水道水だけで十分なひんやり感。水の動きの音が聞こえてくる。自然音みたい。これでいくらでも頭を沸騰させられる。青なのは睡眠色だからか、命名は追々考えよう。笑

 

貪るように何度寝かしつつ、朝ごはんはうどんと梅干ご飯。ちょうど昨日1リットルの醤油が切れたため、うどんのスープに悩んだが、顆粒かつおだし、顆粒中華だしに塩と砂糖を少量入れたら美味しかった。

 

昼ご飯は予告通り、オムライス試作品第1号。鶏もも肉が残っていたからから細かく刻み、ピーマンと人参のみじん切りと一緒に炒めて解凍ご飯と塩コショウで炒めたあとケチャップで味付け。その後包み方を検索したが、ケチャップライスを炊飯器で作るというのがあった。具材もベーコンとか。これは時短で良き。今度試してみたいところ。

 

卵を3個使い、牛乳、塩、砂糖。画像に不格好なものを貼ったが、僕の歴代では1番上手くできている。焦げっぽい色みは卵が焦げたのではなく、バターを熱する時のフライパンの温度が高かったらしき失敗の色。味は、ほんとに美味しい(上にケチャップかけ過ぎた)。卵もとろとろです。

 

次はもっとうまくできるわ。ソースも単なるケチャップだけではなく、赤ワイン熱してケチャップとウスターソース入れて上品な洋食感を出したいところ。試作品第2号はいつになるか分からないが。なにせ僕の食べたい料理の序列の中でオムライスはカレーと同じくらいだし。日常生活で定期的に食べるような料理ではないよな。卵多すぎ、野菜も少ない、塩分も多いだろうし(何目線だよ、おかんか)。

 

原始仏典がやたらと賞賛してくれる。

「貪り合っている世界で、大いに楽しみなさい。貪らないように生きなさい。」

 

はい、とても楽しいです。

 

タガが外れてきているという表現は、小中高時代の僕はまぁまぁこんなやつだったなというところから。ここは、自由に振る舞える程に僕に権威があったという面もあるが、少なくとも他人を下げて自分の価値を保つということはしなかった。中学、高校とこの自由は萎んでいくのだが、空気を読む性質による作用だと思われる。自由に振る舞ったら、陽キャの中心になりそうな感、は言い過ぎだが無駄に目立つから、なんとなく無気力層の人達と一緒に居た(決して過去の栄光とかの話ではござらん)。ほんとは、この時から1人で居た方が良かったのだよな、きっと。

 

「モモ」を読み終わってしまったのだが、これと繋げると、義務教育期間で「時間は目的のために使うものだ」ということが刷り込まれる。例えば、勉強するのは成績を上げるために努力をするという時間をかけることだ、みたいな。学校に毎日通うのも社会の縮図みたいな向きはあった。忘れ物していたら、社会に出た時に信頼をなくすぞって脅迫されなかった?

僕は忘れ物しまくりだったからよく言われていたような気がする。 

 

どうでも良いが、統計学の本で数学のできない人は、努力は収入に比例するとか宣うみたいなのがあったな。職場の先生は、収入は運に多分に作用されると言っていた。

 

僕が覚えているエピソードとしては、小5の漢字テストで勝負しようと言ってきた人と、中3の辺りの理科のテストで勉強してないのにそんな点数取れるのだって言ってきた人。たぶんこれ同じ点数ではないかと思うのだが、あんまり定かではない。100点ではなく、86点だったような。

 

僕は高校以降あんまりおべんきょができなくなったのだが、今の自由読書から見れば、「目的のためにおべんきょ」するという観念が駄目だったのだろうな。たしかに相対評価のおべんきょって、自分がどれくらいの位置に居るのかということで自分の価値を測ることだし、これで上の方に位置していればだいたい社会的に幸せが確定しているみたいなところはなくもない。高校の同じクラスで1人全国模試の上位に載るような人が居たのだが、彼は幸せに生きているだろうか。

 

そういえば、幸せは仕合せとも当てられて、こっちの方がなんだかわかる。身の丈に合ったというか服みたいなものなのかなと。服には目的がある。

 

もう少し、僕の高校時代のおべんきょ体験。

定期試験で1位は取ったことがない。最強に嫌いだったのが英語で他も概ね嫌いだった。ただ、範囲が決まっていない模試の問題は楽しく解ける。この性質をちゃんと自分で把握できていれば別に無気力層に居なくても良かったのにとは思う。

 

まぁ、そう想えるのも巡り合わせでしかなく、だからこそ今が楽しいのである。

 

物理学って全くやったことがないのだが、なんとなく予測がついてきた。

数学ガールニュートン物理学に云々は立ち読みしたが、この世界観って要は、静止した空間の中で、或る時点に物質が何処にあるかをの変数を時間にしたってことなのだろうな。いや、算数の問題でやった、速さ×時間は道のりみたいなのの延長っぽい。そもそも速さとはなんぞやとか、時間とはなんぞやを教えてくれないのがおべんきょ。

 

本題はここから。

 

僕が目的を伴った時間の消費への忌避感があるから気付いたのだのだが、普通の世界において、感情にも目的があると思われてないかという話。

 

感情はどれくれらい現実に寄与するかということなのだが、普通はそれほど現実化されない。好きだから何かをしたいとかではなく、好きという感情は行動ではなく受動、もしくはあくまで内部の感情っぽい。

 

むしろ、現実的な行動の論拠としてそういう感情があったという過去向きの方向性であって、感情自体は現実化になんの寄与もないということの方が多そう。

 

意味分かりますか、大丈夫だろうか。

要は、世に言われている建前ほど、感情は現象のエネルギーとはなっていないということ。

 

感情と現実を一致させることって、特に大事なことではない。

それは感情が現実化しないというタガがまとわりついているのかもしれないし、感情に正当性がないという自覚があるのかもしれない。

 

負の感情は特にアレ。

 

ともあれ、こういう文脈を思うと、僕が男女問わず一定数にモテてきた事象もなんとなく分かってきた。

 

特に誰かに何をしてあげるなんてことはしないのだが、別に好かれたいという感情という目的がないのに興味だけで相手と接する。中1の時に、この時代には不細工な女の子と隣の席になって普通に会話していたら好かれてしまったのだが、僕のふつーが相手にとっては普通ではなかったらしい。

 

個人的には個々が委縮のポイントだったのだが、別に誰かと接するときに好かれようとするみたいな方向性はない。偽って好かれたとしても後でバレるし、というか、そういう目論見で接して楽しいのか。

 

ただ、自分が決めていない関係的集団というのも世の中にあるから、そこにはそこでの不文のルールというタガがある。ゼミとか同窓会とか。この枠で再会したとして、話せたとしても全然楽しくはないよな。僕は僕のことを覚えられていることに特に価値を感じない。

 

会話の話。

 

職場の雑談を聞いていると、ほとんどが自分にとって不快であったことで、気持ち良かったことは1%くらい。まぁ、これって心理学の話で、負の話の方が賛同を得られる傾向にあるという学習からなのだろうなって思う。正になるのは人間の話でない(ペットようつべ)。

 

僕としてはそういう会話を必要とするパートナーってしんどいのだが、と考えると現実的に無理臭い。今日見かけたヒマワリが綺麗だったって言うくらいなら聞いてくれるかもしれないが、人生観が共有できる気がしない。

 

いや、別に共有してくれなくても良いが、こののほほん野郎を現実世界に在り得る人物として捉えられるのか。全然現実的に想定されない。まぁ部屋は汚いし、収入は低いし、社会的にどうのと言われると現れるべくもないが、そんなことより僕と一緒に居て人格保てるのか、みたいな。

 

ところで、好きな人の話。

 

インターネット世界を徘徊していたら、好きな人をインタビューしたことのある人の日記にたどり着いた。直に話したことがある時点でとても裏山なのだが、どうせ本音は話していないのだろうと思っている。

 

なんだかとても厭世観がある。文体はとても明快で読みやすい。

人生で必要としていたのが、お金だったみたいな話も分かるし、人間関係がどうでも良いというのも分かるのだが、なんだか、「ほんとうにそうなのか」という感じがした。

 

夜の人とか昼の人とかの陰陽分類は、社会的に日が当たっているとかではなく、他人に分けられるかにあるような。陰陽でも先に陰が来るのは面白い。

 

本当にそうだったとしたら、何のてらいもなく日向に出れば良い。

出ないとしたら、何か後ろめたさというタガがあるような。

 

 

僕は、人の僕に対する嬉しさを有り難いと思う。

気にもしているし、実際読んでいるし。

 

まぁ、現象化とは関係ないという意味では陰の者ではあるが、そんなこととは無関係に楽しんでいる。

 

私信でオムライス画像送りつけてみるとか目論む。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。