引力

 

 

 

無意識を説得する方法はどこにあるのか。

 

 

 

二度寝前に刺激の強い文章を読んだからそんな夢を見た。さっきシャワーを浴びたときに思い出したが、僕も大昔、通話による何某の遊びはしていた。昨今のように状況が接触を許さないということではなく単に物理的に遠かったからだが。声では体は撫でられないが心みたいなものは愛撫できるのかもしれない。文章で抱擁もできるような気はしている。文章は官能的な方面ではないが。

 

夢は、何やら覚悟を決めた僕が1対1でそういう施設に入ったのだが、なにせ初めてなため逡巡して外に出ると雨が降っている。雨宿りをしている2人組を見つけてお誘いをするとなんだかすんなり入ってきた。先に入っている1人に言うと若干嫌な顔をされ、「お前が良いなら良いけど」と言われる。そうして2人組もどこかの方言を話していて可愛らしい感じなのだが、ちゃっかりシャンプーなどを選んでおりなかなか慣れた風である。部屋割りどうなるのだろう等と思っているタイミングで目が覚める。

 

経験則と読書と想像のスクランブル。村上さんの小説のように起きたら知らないおなごが隣で寝ているという経験は流石にない。知らない天井という感じは多々あるが、単に泥酔しただけという。記憶飛ぶまで泥酔して致すことができる人種というのは獣の血が濃いのだろうな。僕はそこまで飲んだら眠くなるので無理です。

 

そんな生生しさで目覚めたあと。頭に触れる蒼(水まくら)の温度を取り除いて感触だけにすると、ちょっと人間の膝枕みたいだとなり普通の枕に取り換える。たしかに人間の成分の大半は水分だというしなぁとか想いつつ、うとうと。華奢な肩、、、というフレーズが出てきたが、一体誰の肩なのだろう。自分の肉は細いが骨格はきちんと骨太、なんて情報は蛇足。

 

よくよく読むと凄い冒頭文だが、とくに官能的には響かないはず。

1個の日記分をまるまる官能短編小説風な文章にして書いてみる(相手は実在しない)という試行衝動が出てきたことは内緒。

 

さておき。生活は普通に楽しい。引き続きちょっと体に重力を感じたが、意識を張り巡らせて生きているからこそ感じられるもの。ほんと世界って美しいよな。仕事帰りにきっとないだろうなと思いながら電車で2駅の本屋さんに行ったとき、ふと見上げると夕焼けの直前の色が多すぎてなんとも言えない空を背景に建つ高層ビルを見て、人間ってほんと凄いなぁって思う。結局無かったのだがこの瞬間を見られたことで全部チャラ。なんならプラス。

 

で、最寄の駅に戻りお買い物。お刺身とベビーリーフのサラダを買って、副菜をどうしようかと思ったら沖縄フェアをしていた。眺めていると、島らっきょうを鰹節をかけて食べるセットがあったので買ってみた。

 

島らっきょうといえば、直近の元恋人さんとの思い出。もう3年くらいになるのだが、僕にとって時計時間はあんまり関係なくっている。大阪梅田駅の本場の空中庭園があるビルで映画を見たときの話。たしか何かのファッション業界の大御所のドキュメンタリー映画だった。名前もそのうち掘り返されるだろうな。というところで、たまたま入った個人経営のこじゃれた料理店で島らっきょうがあったのだが、硫化アリル満載というか、滅茶苦茶辛くて、あれは無かったなと話し合ったある意味トラウマ。

 

今食べているのだが甘味がありとても美味しい。おっと、今食べた部分はほのかに辛いが、これくらいなら刺激的な味である。トラウマが更新された。

 

日本語文章の読み取りと、原始仏典でいう他人の立場と、文系理系と。

 

人が書いている文章が理解できていると思い込めるのは、自分の文章が正しく読まれたら自分の意図に辿りつけると思い込んでいるからだろうな。自分を言葉で完全に表現できる方法があるとすれば、言語学者や小説家みたいな専門家はきっといない。

 

昨日の続きを掘っていくと、文章が日本語で書かれているからただ読めると、その文章に書かれている意味を書かれているように読み取れるかと、読み取った文章の意味を頭の中で再構成して自分の言葉として変換できるかの段階は随分と違う。

 

ただ読める=眺められることで読めると思っているのが大多数っぽいが、この段階だと他人の言葉はただの風景で、自分に引っかかるものとしての意識的世界でしかない。都合良い部分しか見えないという意味。悲観的に世界を捉えているのであればそういう世界の情報しか見えないし、どれだけ文章読んでも世界観は変わらない。

 

この段階でしか文章読めない人って、おそらく説明書がきちんと読めない。

でも、別に当人の人生では不自由ないからこうなっている訳であって、特に問題はないと思うが。

 

あとの2段階は、とても難しい。自分から離れて文章を読んだ上に自分に戻ってこないといけない。書かれているように読める人は自分に戻って来れなくてコピペ人間になるみたいな感じだし、いやこれも1段階目の人か。

 

書かれているように読むというところが、原始仏典が言うところの、人の立場になって捉えるというところに繋がっている。何回も書いていると思うが、ここではだいたいは収まってもイレギュラーはこの考え方では駄目なんよな。何か定型的な人間の道を前提としているところ。

 

原始仏典では、結局自分が大事だという本性を理解して、その文脈で相手も当人が1番大事だということを理解していくということになっている。確かにこれはそもそも論の当たり前の話で、相手を最優先だとする虚飾の言葉を遣う人なんてありえない。

 

自己理解が他人への理解になるというも正しいとは思う。これは結局1生どちらのことも分からない。

 

ただ、自分が嫌なことは他人も嫌だとなるのは決めつけよな。本当の他人の理解は、自分が嫌なことも嫌でない人もいるし、自分が嫌でないことが嫌な人もいるという自分から離れたところ。自分を基準とすることが是とされているから、熱血漢がまかり通る。根性、やる気が足りない、云々。

 

僕がこういう、(自分を保ったまま)相手の立場になるという倫理感がだいたいをカバーするようにしかならないのが気になるのは、この考え方だと、無差別殺人者を説得できないところ。自分がどうでも良いし世界もどうでも良い人に対して、こんな雑な論理で通用するかいなって。

 

人を尊重するのは、自己観と離れたところに置かないと結局自分の枠内でしか人を考えられない。祈りも自分の為にしかならないし。自分が悲しんでいる相手を見ないで済むようにみたいな。

 

自分に価値が全くないと思っている人に対して、世界を大事にする理由を思い付ける人っているだろうか。自分をちゃんと守れている人は、その枠で他人も大事にできるから別に説得する必要はないが、いわゆる無敵の人に何を言うのか。

 

手っ取り早いのは、犯罪行為は禁止ですだが、何の説得力もないよな。これは当人の欠陥というより、一般社会の漏れだと思う。思考の省エネ。まぁ、多数派が納得できればそれで良いもんな。

 

この流れで、文系理系の分類。個人的には文系も理系も突き詰めたら同じことで、何にせよ分からないということになるから、一般的に言われる文理の分類ってどっちもどっちだと思っている。別に考え方を否定する気はないが、人の気持ちが分かるって思えること自体が欺瞞でしかないのは、文系でも理系でも突き詰めたらそうなる。他人のことなんて分からないし、自分のことが相手に分かられることもない。分かられたいなら、相手の世界観に合わせて自分を加工するしかない。

 

僕はあんまり年収エリートの人と話したことはないが、研究者でないならただの思い込みで生きているだけだし、それが気になるのであれば当人も思い込みの世界で生きていると思う。

 

 

はい、ここで冒頭文に戻る。

 

当人の世界観において、無意識は絶対的な支配者。言葉は思考の上澄みでしかないというフレーズを立ち読みしたが、思考も無意識の上澄みでしかない。

 

無意識は意識的に把握できる情報よりも圧倒的に情報を持っていて、頑固おやじだし、知恵袋でもある。生き残ってきた自負があるから、意識から説得しようとしてもかなり難しい。無意識は論理で正解を見つけている訳ではないし。

 

僕の説得案件は、好きな人を好きであることをやめたいというところ。

これはそうあるべきでないとかではなく、いったんフラットになりたいなというだけ。

 

別に主観的に好きでなくても更新情報を観測するという肯定的所作はできるし、好きに対してないも返してくれなかったということでもないし。

 

この好きの現実性としては、毎日1通ないし2通くらい私信のメールを送ることだったのだが、双方向性は全くない。返信はここ1年くらい全くない。本気で素朴で考えると、この一方性は現実的に考えて歪んでいるという警告が上がってきている。

 

時間という費用対効果ではなく、そもそも世界観が違う人と接するのは相手にとっての異分子であるとか、諸々。

 

世界観に流されていたのかな。

 

僕は会えなくてもいちゃいちゃできなくても面白い存在の挙動は普通に見るだけだった。

全然無駄な時間ではなかったが、無駄な挙動ではあったのかもしれない。

 

よしよし、世界に対してフラットにできてきた感。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。