昇華

 

 

 

22:15から。

 

 

昨日の文章は穢れが溜まっているとの感想をいただいた。

その後、発散させるために来週の休みには山に行こうかと提案してくれる山が特に好きでもない満月さん、凄くないですか?

 

本日の晩御飯は、あまり作っていない。

昨日の刺身の残りと、一昨日のおでんの残りを消費するのとは別に、リクエストされた台湾ラーメンとちぢみほうれん草のお浸し。ちぢみほうれん草初めて食べたが、濃ゆくて美味しい。

 

 

さておき。

 

お仕事は、あんまり元気がないことを店長に気付かれたが、お客様には気付かれなかったらしく、なんとなく成果になった。結果主義の業種な以上、結果をもってラッキーとすれば良い。ほとんど考えて話してはいないのだが、自分の話を聞いていると学習したもの徐々に体現している感じはある。

 

考えるってなんだろうという命題はきっと一生謎。

 

僕の場合は、言葉で考えるという意識化があまりできないだけで、意識より下(上?)が考えているような気がする。直感なのか、単なる当て勘なのかは分からないが、準備としての考えるってあんまりしていないような。店長を参考にして変化しているところではあるのだが、言語化できるかどうかはあまり問題でもないような。

 

自分が意識すべきは、外から元気に見えるように振る舞うことであって、言語化する以前に意識できること。音程を上げるとか、マスクの下で口角を上げるとか、諸々を上げていけば良い。

 

たぶん、こういう所作をしていくだけであれば、特に自己像との乖離は起こらないと思われる。ここから派生して自分の中身と矛盾するようなことをすると不具合が出てくると思うけども、元気でないときに元気で振る舞うことは無理やってホメオスタシスを覆した方が人生劇場をより楽しめるような、という気分。

 

元気の定義もなかなか微妙なところ。

外から見れば発話量が多いことは明らかに元気よりの指標だと思うが、個人的には発話量では人の元気は量れない。対話するときって、発話量より対話の質だし、発話が表現として多くなるとき、世界が広く見えているのかというと微妙。

 

僕の言語化の量が増えるのは、欲求というより可能だと解釈している。

それは違ってほんとは色々なことを人に語りたいのでしょうと解釈するのはもちろん自由だし、そういう聞いてくれる(読んでくれる)人に対しては言語量が増えるだろうから、結果的には同じこと。

 

個人的には言語は時機を問題とすべきだとしたいところ。

量でもなく、このタイミングでこの言葉を持ってくるのかという刹那の適切。

 

 

滞っているときには風通しを良くしようと行動。

お風呂読書のラインナップを見直した。惰性で読んでいる本は外して満月さん書庫にある文学畑を採り入れてもっと動かすことにした。

 

現代詩入門と、テクスト論みたいな本。

 

これがまたセットで面白い。

INFJ型には文学部が多いらしいが、定義できないのが面白いのかもしれない。

 

現代詩入門では、1章で大岡信さんが詩の難しさを語っている。

言葉って伝わらないと意味が無いのだが、並行的に言葉によって正確に書きたいものを描写する試みが必要だということ。この微妙な塩梅に揺蕩えないと詩人として大成できないのかもしれない。

 

で、テクスト論は、言葉の記号としての機能に焦点が当たっている。

もちろんまだ冒頭辺りだからなんとも言えないが。

 

記号としての言葉は、言葉の意味としての中核より外に可能性があるものという話。

この可能性があるから疎通ができるし、共感も起こるのだろうと考えると、言葉は記号としての機能より、可能性としての拡がりがあるからこその存在意義があるような。

 

記号で言えば、数学って使われている個々の記号の可能性がほとんど排されているからこそ成り立つ学問なのだろうなと。解釈の余地も本格的に学問している人にとってはあるのかもしれないけども、記号の意味自体に解釈の余地があるようには作られていない。

 

数学もずっと読んでいる枠だから、可能性が排除された世界も好き。

繋がっていけば結局意味の拡がりがあるし。

 

伝えたいことと伝わることは違う。

僕はここの文章体として特に伝えたいことは無いから、何か勝手に伝われば嬉しいなというくらい。

 

でも、この感覚ってある意味凄く傲慢だと思う。

利害なく人の時間を奪うってだいぶやばい。情報として有用だという文章体としての存在意義があれば自分の文章を読まれることによって読んだ人が有用な情報を得たという関係で解釈されるからむしろ読んでくれる人が増えればより当人の中で良い世界になる。

 

有用でなくても自分が伝わるのが嬉しいという感覚は利害より高次であるような。

 

 

最後に書くと僕が宗教に寄っていると思われてしまうかもしれないが、満月さん書庫に聖書があったもんで、この時機にゆっくり読んでみようかなとなった。

 

まだ冒頭だけども、面白い。

 

古事記とセットで読むと、何も無いところから神様が世界を創ったということになっていない。どんな神話もそもそも神様が存在する土壌が無いと神様が何も作れない。

 

聖書の冒頭で面白いと思うのは、まずは闇と水はあったのだなというところ。

僕も幼少期明るくしないと怖くて寝られない体感があるし、水はきっと羊水で体験済みだしと考えると、創世記というより、人間になる過程を刺激しているから広く読まれているという解釈の方が面白そう。

 

ちなみに僕は宗教している人に対して偏見は特にない。

 

どんな宗教も神様は人間と同じ次元に存在しないけども、その存在を信じるために自分がどう行動するかという話になっていると思う。もちろん、行動次元がお布施とか輸血拒否とかになると、当人はともかくその環境で育った子供が不遇だなとなる。環境によって信じる対象が決まってしまうというのは村上作品によく出てくるテーマ。

 

ただ、あらゆる意味で全く不遇でない完璧な個人なぞ存在しないとすると、別に何を信じるのも自由で良いような。何を信じても良いけれど、自分が信じていないものを信じている人を拒否しないというのが多様性の世界。

 

拒否しないというか、攻撃しない。

 

多様性の世界では道徳的に決まっているからみたいな感覚的で言語化できない理由には説得力がないから、相手を自分の世界に持ってきたいのであれば、外の理由ではなく自分をもって説得しないといけない。

 

はい、おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。