書き言葉は思考の上澄みでしかないというフレーズを何処かで読んだが、思考(=意識的言語)も無意識の上澄みでしかない。ただ、この無意識も生きていたすべてのいまの上澄みなのだろうな。

 

本日はなかなのポンコツモード。痛くなるの分かっていて挙動するのは、ヤマアラシのジレンマ感。完全に一日動かないということもなく、昼には豚ロースの切り落としを焼いて丼を作り、大阪の中心の本屋に行ってきた。ほとんどなんでもある。

 

夏の夕方の空ってほんと綺麗だ。淀川を渡る瞬間のパノラマはある意味花火どころではない優美さ。空虚な心が自然に美を感じるはずがないという反証。でもにんげんっぽくあくせく生きている人の方が自然に心を傾けられないとすれば、どうなのなのだろう。

 

さておき。

 

収穫物としては、探していた有斐閣の「行動経済学」と、たまたま会計の棚に行って惚れてしまったミネルバ書房の「教養の会計学」と、刑事訴訟法の本。刑事訴訟法には思想的な意味で面白みを感じないため、しっくりくる本を模索中である。

 

法律棚を眺めていると割と大きめの声で話している学生風女性の2人組が居て、若干居心地の悪さを感じる。知財法の棚にだべっており特に邪魔ではないが、否応なしに会話が耳に入ってくるのがなんとも。聞いていたら院試がどうのとか、某大学の知財法の教授のことを話していて、あぁその教授の抗議受けたなぁとか。あまり仲間意識は感じなくて、学問の世界は狭いなぁと思っただけ。

 

会計の時に後ろに並んでいるカップル(夫婦?)が両者10冊ずつくらい本を抱えていて、面白そうだと語らう姿が微笑ましかった。小説か漫画かは定かではないが、こんな長い物語書いていてプロットとか設定とか忘れないのかなと話していて、創り手側に属する人なのかなという想像。個人的には創作に没我していたら、その世界が現実になって設定という発想すら浮かばないのではと思ったが、そういう風に創作している人なんてきっと頭の構造がおかしい一握りでは、とか。

 

沖縄フェアの収穫物は、シークワーサーのお酢で作った大根の甘酢漬け。美味しいけど砂糖はあんまり良いの使っていないような気がしないでもない。保存とか輸送とかからすれば当たり前だが。

 

原始仏典で、良い言葉という話があった。曰く、①自分を苦しめない、他人を損なわない、②理法を語る、③こころよいことのみを語る、④嘘のない真実の言葉。②はともかく、③と④が両立していなさそうな言葉の語り方をししている人は多いような。結局、真実の言葉で過ごさないと、自傷他害の言葉になるのではという感じ。古典経済学的な倫理としては是なのかもしれないけれど。

 

講談社学術選書の青カバーの本はとても面白い。「ことばと意味」という方はもう4周目くらいなのだが、辞書で言葉の意味を引けるためには、その意味の言葉を前もって知っておかないといけないって書かれていて、まぁそうだよなと思った。アプリオリな意味で人は個々人それぞれの言葉(現実世界の表現様式)を持っている。

 

個人的にはもともと言葉は結果としてしか使っていなかったから、主語がないとか明後日に飛んで反応できないとか、拍子が合わないというのがあった。このところには間に言葉を当てることで、なんとか他人との疎通がまともに成り立つようになってきたが。

 

何が言いたいかというと、世界はことばでできているということ。個々の言葉自体がどうのではなくなくもっと抽象的な、伝達と意味の構造とまとまりがある文章みたいなもの。学問がまさにそうだし、映画もそうらしいし、極論人だってそうなる。この意味での人でいうと、当人が言語化している言葉は、ことばの一部でしかなく、もっと広く読み取れることば情報。

 

教養の会計学は、会計学が詰まらないという人に向けた本で、他分野との繋がりも意識して書いているというはしがき。そうそう、学問が他の学問と何にも繋がってないことなんてありえないよな。会計学はヒトの起源と繋がりがあるという意味での一章は、ほとんどホモサピエンス全史と同じだった。社会性を取得したことには、記録があるとかなんとか。ゲーム理論とも繋がっているらしく楽しみ。

 

あと、良いフレーズだなって思ったのが、「人を深く愛するなら、人を深く理解しないといけない」。で、理解とは局所的に具体的にそれが分かるみたいなものではなく、その背景にある理論を自分のものにして、もっと広い事象に適用することだとか。ここまでくると意識とか知識の領域ではないよな、たぶん。

 

凄い会計学的な手法なのだろうなと思ったのが、この本読んだらこういうメリットがありますよって餌を釣っているところ。会計情報は客観的なものではなく恣意的なもので、そこには経営者のオリジナリティがあるということを知ることで、情報に騙されなくなるとか。

 

行動経済学も、1章は既知のなのだが、文体がかたっ苦しくて好き。まだ日本では若い学問だから、英語の論文を読んだ方が良いと書かれていて、英語の読解力は必須なのだろうなとなっている。第二外国語はネイティブにはなれないから、自国語の体系に落とし込むことなのだろうが、僕は自国語の文法も感じでしか捉えてないからなぁ。

 

僕の文章読んでいれば分かると思うが、全く正当な文体ではない。

通じなくても良いし。

 

「AIは人を憎まない」で、信じたいことと、信じたくないことへの意識的反応が違うという話を見た。信じたいことに対しては、「信じられるものなのか」、信じたくないものに対しては、「信じなくてはいかないものなのか」となるらしい。

 

これはかなり真理だよなぁ。信じたいことに対しては、それを肯定する事象が1つでもあればそれ以上思考をしなくてもよくする。思考停止。逆に信じたくないことに対しては、反証が1つでもあればそれで否定できる。

 

面白いのは、こういうのが現実的知覚にも影響しているということ。やっぱり当人の世界観が現実世界をどう生きるのかを設定しているじゃんという話だが、これが化学的に検証されていることだとしても信じることはできないはず。

 

なぜなら自分を現実則を信じているからだが、ほんとに本気に自分の現実を検証した人は居ないと思う。

 

僕は、別に信じるとか信じないとかでもないと思っていて、社会性の中にあるその人のことではなく、その先の本気の魔女的思想が気になるみたいなところはあるが。

 

誰も信じてないけど、結構満遍なく愛はある感。

 

だから、自分に都合が良い人を愛している人が僕を読めるはずはなさそうなんだけどなと思っていて気になる。僕の文章によって何かの都合の良さがあるという説もあるが、何処にも行けないと思うのだが。なんだか僕はもくもくと自分の中で考えた方が良い気もしてきていて、そこに読み手は必要ないのだよな。

 

 

無意識への説得は割と成功しつつある。誰かの世界に干渉しなくても僕は僕で在る。

 

僕の好きも気になりも、きっとバーチャルとしか捉えらえてないのだから、その水準の立場になって考えたとき、私信は在っても無くても良い。

 

勝手に観測すれば良いだけだ。

 

なんで日記書いているのだろうということも気になってくる、

傍若無人な考え方だが、これを読んで何かしらの効用がある人に対しての施しみたいな挙動になっている。

 

ほんまかという問いかけもあるが、どうしてくれようか。

 

マラルメさん曰く、定義することは殺すことで暗示することは創造することらしいし。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い現実を。