チート

 

 

 

タイムラインが大人しくなった。どういう理由かは定かではないがハッピーだったら良いな。

 

さておき。

 

日記における登場人物の存在感について想いながら寝ていた。普通はそんなにないものなのかな。基本的には自分の記録という用途なのだから人はあくまで出来事として書かれるもの。

 

「教養の会計学」で、複式簿記での記録は情報をそぎ落として意思決定をしやすくするものだという用途をさっき読んだのだが、なるほどなぁ。まぁ、公的な言葉化をどこまで事実と合わせるかは当人のモチベーションの問題でしかないし、用途も人それぞれではある。用途まで読めるとは思わないが、なんか味わいが違う感じもする。

 

僕の日記に出てくる人物の存在感はどうなのだろう。自分に対してどうだったかは問わない記録情報とそれに基づいた見解だからあくまで存在の一部としてか書かれていないと思われる。

 

存在は言語化できるものではないと定義してしまうと、描写する文字数が少ない方が適切なのかもしれない。プロフィールに詳細な好き嫌いとか他人に対するルールを書いているような人に違和感があるのは、あんまり自分の存在に辿りついていないのではという感じがあるため。結局、貴方はどういう人物なのだろう。

 

情報は20文字にまとめられないと使えないということからすると、僕のプロフィールは「言葉を食べて生きる、人生をやり込む遊び人」(ぴったり20文字、遊び人はオタクと互換可能)。

 

そもそも書き手の存在感を味わえる日記もあまりないような気がしないでもないが、これは良いや。

 

 

本日は髪を切りに行ってきた。この連休は雨だらけという情報が耳に入ってきたから、昨日コンビニで大きめの傘を準備していた。折りたたみ傘でも良かったのだが、行って帰るだけだからわざわざコンパクトな傘である必要もないよなと。雨が降っていないのにコンビニで傘を買うという希少な体験。

 

理容師さんとは相変わらずゲーム談義。やってきたゲームと姿勢が似ているから捗る。たまたま三国志をモチーフにしたシリーズの2作目をやり込んだのも同じで、面白いなと思う。大学時代の飲み会とかでもやり込み談義があったな。レベルカンストとか。僕は自己評価としてやり込みする前にどうなるか知ってしまって飽きる奴だったのだが、今想うとやり込んでいるゲームはいくつかあった模様。

 

ただ、僕はもう今更自分でゲームをやり込む気はない。これは時間がないというより、もっと適切なやり込み要素があるものを見つけてしまったからだろうな。理容師さんは現実とゲームを分けて捉えているしこれが正しいとも思うが、ライフが1しかない、セーブリセットも存在しないここが最大限の遊び場だとなってしまった。

 

遊びと捉えても捉えなくてもどちらにせよ1回きりであることは変わらない。

こういう風に捉えて楽をしている層も居るらしい(思考の現実化とかスピリチュアルとか)から、それほど不謹慎でもない、はず。

 

生活上必要な情報以外のものは、やり込み要素でしかない。父親が読んでいたらしき「人生論」で、風車を使って仕事をしている農夫が風車のメカニズムが気になって研究家になり仕事どころではなくなったというエピソードがあるが、僕は読んだことによって生活がぶれるみたいなことにはきっとならない。やり込み要素は解像度が変わるだけ。

 

僕の生活を変えてきたのは僕ではなく、その時々に生活圏だった人達だった。

お人好しなもので。飲んで微睡まないと馴染めないという感じだった。別に今も飲んでいるが、ちゃんぽんがないと二日酔いにもならない。飲み会の場は精神がちゃんぽんになる。こういうのが一体感なのかもしれないし、飲まないと人と会話が成立しないというのもなかなか大変。人と会うって何かを話さないといけないし、僕は見ての通り(?)自分を伝えたい言葉は持ち合わせていないし、雑談は一期一会ならともかく、毎回になると何かの穢れが溜まって来る。

 

感受した世界は自分の外のものという原始仏典はそうだろうなと思う。人生をゲームになぞらえたら、こういう昔ながらの教典は攻略情報みたいなもの。だからといって真に受けても微妙に違うから上手くはいかないのが人生ゲーム。

 

別に答えを見つけるために読んでいる訳でもない。人間関係論で、物(もの)を取っていく人は友人ではないというのがあったが、まぁそうだろうな。ただ、類は友を呼ぶだから、取られていると思ったときには取っているのかもしれない。

 

まともな人は自分が正しくないことを知っているとしても、当人の中では何か指針がなければ自己観を保てない。では、この指針はどこから来たのだろう、という前提が共有できないと普通の会話もままならない。雑談はできるとしても。

 

正しい判断をしたいのであれば、「AIは人を憎まない」を読むと良いと思う。

バイアスを排して、自分の思考とは別の思考法を採用することが書かれているような感じ。

 

なんだっけ。

 

この人生というゲームって、自分の魂の在処を探すことに尽きるのではという感じ。

どう在りたいのか、どうなりたいのか、どういう風に死にたいのか。

 

そういえば、僕はあんまり人の記憶に残りたくないのだが、忘れて下さいって言うのは逆効果だった。直に言ったことはあまりないが、僕という存在が残ってしまう。走馬灯にも現われたくない。

 

村上さんの小説の直子も言っていたけど、なんで人って人に覚えておいてもらいたいのだろうな。覚えて貰っているかどうかって、いちいちテストしないと分からないことなのに、この文脈だと自分が退場した後でもだし。

 

これはもしかして、冒頭に返ってくる、存在観の話か?

複数に認定されて初めて自分が確立されたことになる。これって某有名な脳科学者の茂木さんが書いて居た、現実の要件とも一致しているから自分の認定も大変だよな。

 

こういうのは、自分をちゃんと見たらグロテスクだから分散しているのかもしれない。

個人的には人って文化的な皮を1枚剥いだらそれぞれ別モノだと捉えているし、もっと剥いでいったらどうなることか。

 

僕はたまたま何の呪詛もないのがデフォルトだったが人によっては大変よな。

 

ここまでくると、魂みたいな超常的なことになってくる。

父親は知らないが、僕の家族って裏表満載の人物達で、正直接するのがキモチワルイ。

いや、良い風に言うのは義務だというのも分かるが、本心の言葉でないことを知っているからそんなの読みたくも聞きたくもない。

 

そういうフィクション的な言葉をやり取りするのが現実だという向きも分かるが、だとすれば貴方が扱う言葉は現実に汚染されておりまする。

 

僕はこの世界においてフィクションとしての言葉は書いていないし、もっと穏やかな場にしたいと思うが、反発的無意識もあるから攻撃的になることもありうる。

 

依拠できる絶対的基準がないからバランスを取るのが大変なのです。

 

言葉って、ほんと大事だよな。

 

ここまで。

 

なるべく清らかでありますように。

 

おやすみなさい。