腑分け

 

 

 

本日ばアサガオに挨拶できた。自販機でカルピスを買う。カルピスも常備飲料に導入すべきかを考えている。ブラックコーヒーと牛乳とミネラルウォーター(常温)が現状。カルピスは平日ではなく飲みたくなるのが主に土日だし、毎日飲むには甘すぎるか。

 

土日は基本的に炭水化物が多め。平日の弁当で冷凍して余った米の消費と、スーパーで買った茹で麺とか、レトルトカレーとか。レンチンできるようになったのはレトルト界の革命だと個人的には思う。時短と手間を取らないことを求めて買っているのに、湯せんかはともかくいったん耐熱容器に入れないとレンチンできないのは面倒。

 

朝ごはんは、うどんを茹でて水で締めずに水分を切り、リケンの乾燥わかめを戻したのと、ゆかり、マヨネーズ、醤油、顆粒かつおだしであえたズボラうどん(しかし美味しい)と納豆ご飯と昨日買ったキムチの余り。

 

食べながらゲーム実況を見ていたのだが、人のゲームの仕方に注文を付けたり、漢字が読めないことをアドバイス(?)する人が多い。なんだか仲間になれない世界観。某動画サイトが衰退しているのがなんとなく分かる。メディア論でいうと参画性が高いからホットになるのかな。知らんけど。

 

そうして、どうしても欲しい学者さんの本があったため、昼過ぎに出かけた。体感する日差しでは、夏はまだまだ終わりそうにない。この書店、やはり相性が宜しくなくなってきている。リブロに入り浸っているからかもしれないが。欲しかったのは刑法学者の井田さんの刑法総論の本だったのだが、なかった。理論的に抽象的で難しい分野で、学者の哲学観がモロに出るから、最大公約数的な情報は同じでも合わない人は全然合わない。

 

概念書き殴りごった煮で、身分犯のことを考えるに当たり資料として欲しかった。身分というのも難しい概念。刑法上の身分は日常用語の身分も含まれる。ワイロにまつわる犯罪に主体になりうる「公務員」という資格とか。ただ、裁判上は旧強姦罪での「男性」という性別も身分になるとして、性別は身分なのかと素朴な感覚では思う。まぁ刑法においては何が身分かというより、犯罪行為が犯罪になるときに行為者が、どういう特殊の地位又は状態なのかによって犯罪が成立するかどうか、もしくは刑罰が重くなるか、軽くなるかを問題にしているため、日常用語とはズレるのは仕方がないとも思う。

 

身分がもっと問題になるのは、憲法の14条の平等の概念で、努力で変えることができない属性が中核なのかな。平等の話は抽象的に不公平を訴えても意味はなく、何と何を比較するかが重要。

 

という感じで、結局立ち読みするだけで冷やかして帰った。化学とか工学で良い本があればと思ったのだが、それほどそそられず。どちらも分野が細かく枝分かれしていて、一般教養としての入門書がなかった。工学だと機械工学の本がやや多かったが、それで言うなら人間工学が気になっている。これだと心理学とも繋がっていそうだが。

 

で、ピカソの本をぱらぱら読んでいて、「毎日同じことをするのは怠け者だ」というフレーズがあって何かしら響いた。そこで、帰りのスーパーでは今まで買ったことがない、マーラージャンという調味料を購入。早速本日のもやしとワカメのナムルに使ってみた。新規なのに多めに投入したため、赤みが強く、とても辛い。昨日食べた辛口のレトルトカレーどころではない。豆板醬より辛いかもしれん。

 

さておき。

 

言葉。言葉を研究対象とする学問さえ多岐に渡っているから、言葉という概念の最終判断ができるようになるのは死ぬときくらいかと思う。

 

僕が人格と言葉が近いと思うのは、体とかしぐさとか態度とか感情とかはあまりコントロールできないが、言葉は完全に任意で決められる余地があるところ。もちろん惰性の語彙だけで生き抜くことも可能だし、それほど普通の人の言葉のみを取り上げて意味を持たせている人もいない。だからこそ、ここに人格の中核が顕われるのではという立場。

 

まぁ文に体があるのだから、顔があっても問題はないよな。ここでいう顔は、他の存在と識別できる徴みたいなものという意味で、固有名詞とは関係ない。

 

最近よく聞いているアーティスト。「DUSTCELL」という名前なのだが、どういった由来なのだろうと考えていた。直訳だとゴミ細胞で、思考では、ごみって捨てるものだが、細胞が捨てられた後には新しい細胞が入ってくるし、循環→新陳代謝みたいな意味なのかなとなる。答え合わせに調べたらインタビューがあって、名付けた歌い手曰く、「自分は自己肯定感が低く、ごみみたいなものだが、誰かの細胞になれば良いなって思って付けた造語です」だった。語義的には正解ではないが、概念的には当たらずとも遠からずでは。

 

英単語の本を見ていると、英語って概念的なイメージで単語が作られている様。まぁ単語を構成するアルファベット自体には意味がないし。日本語は概念ではなく、表意的だから中の概念が共通してなくても、言葉だけで通じるところがある。定義する必要がないというか。この曖昧さにより、言葉が画のように鑑賞できるという芸術性もある訳で、僕は日本語圏に生まれてとてもありがたいと思っているが。

 

そういえば、自己肯定感。このインタビュー記事を見る前、カルピスと立ち読みの間くらいに、kindle読み放題でハリーポッターばかりではいかんなと思ってダウンロードした本が、「自己肯定感を高める」だった。ほとんど目次だけ流して終わったのだが、人はもともと自己肯定感を持ち合わせているという言。たしかに。この本の趣旨は、あえて高めようとするのではなく、自己否定をすることを止めたら結果的にもとに戻りますよということ。

 

そもそも自分が自分であることに肯定も否定もない。これが出てくるのは比較対象が出てきてから。相対的に自分を捉える限りこの檻からは逃れられない。僕の自己否定感も関係によるものだしな

 

孤独感だと相対的なものもあるが、絶対的なものもありうる。自分が誰とは違う自分という存在であること自体が孤独。でも、絶対的な自己肯定感とか、自己否定感は概念上ありえないと思われる。肯否の語自体が何かと比べるものだから。

 

僕が一番近いのは、発達障害なのではと思ったのが誰かの日記を読んだところ。いや、中身は違っていても場には合わすから、そうでもないのか。今や健常な精神自体も分からなくなっている。ただ、今の認識でもう1回高校の部活をやり直したい感はある。もっと自分の体を遊ばせれば良かったし勝つことに対する罪悪感も考え過ぎだった。スポーツは遊びだもの。譲り過ぎじゃ。

 

他人のことを気にしないで生きるということが僕にとってはとても難しいことだった。まだそのホコリは被っているが、そこまで考えていくとキリがないし効用もないんだよな。ここで言う効用は、天秤が違うものを無理くりおなじところに乗せてもバランスが取れないという意味。

 

言葉をどう扱っているかもきっと全然違う。

 

僕はここ何年か、内観的に言葉を扱っていて、何か事象に接した時に描写する機能もあるが、もっと深みには、何か心が動く現象に接したときに勝手に起こってくるのが言葉なのかもなとなっている。

 

いや、厳密には起りは言葉でなく感じで、それを書き起こすために出てくるのが言葉。言い回しとか、言葉と自分を離してこねくり回すことでもない。

 

「思考する身体」の人が、「思想とは俯瞰する目の高度でしかない」と言っていて、この文脈では目と言葉はとても近い。同じ高度で過ごしている人は、その高度の事実のバリエーションくらいしか見てないし言語化もできないし。

 

起る言葉は自分の視界を示す。

 

芸術学はほとんど素人だが、芸術とは見る人の視界領域によって鑑賞者の起こりが異なるものなのではという感じ。だから言語を読むのが大事。この文脈では読書はその人の当たり前の視界を破壊して再構築するためにある。

 

別に恋人は募集していないが、条件を置くなら、本が読める人であることは最低限。読書が趣味でなくてもいいしいま読んでなくても良いが、本を読んで自分の外を体感できるような人でないときっと合わない。

 

言語以外の芸術作品も鑑賞側には何かが起こる訳で、それを腑分けできるのは言葉だけ。

まぁ、起りだけ感じるのも良いと思うが。

 

もっと他分野で鑑賞しないとなと思う次第。

 

見えていないものが多すぎる。

僕の高度はどの辺りなのだろう。

 

では、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。