言葉の中身

 

 

 

ぼーっと自分の情動に耳を傾けていると、社会的自己承認欲求のような高次なものはなくただの肉体的なやつが多い。三ツ矢サイダーとカルピスを飲み、冷やし中華やハム丼を食べ、もぞもぞしつつ、アプリ―ゲームをインストールし、200円だけ課金し、夕方にはアンインストールした。

 

開発者が個人でやっていて、気が向いたらコーヒー奢るくらいの感じで買ってくださいみたいなことを書いていた。広告が出なくなるのとのことでインストールした直後にすれば良かったが、なんとなく、アンインストールする直前に課金した。面白かったです、ありがとうみたいな感じ。

 

ゲームは見るだけで十分だなと思う。そこまでゲーム世界に浸れない。社会構造のインストールという意味では貴重な学習体験ではあった。神話とかユング心理学とか。ゲームは好きだし全然捨てたものではない。ただ、アプリゲームはどうなのだろうな。課金にハマる心理って、おそらく深層には「時間をお金で買った気分になれる」ということにあるのではないかと思った。別に経済学的な考え方だと時間も指標の1つだから何も不思議ではない。現実では移動時間とか調理時間の短縮のためにお金が使われるし。

 

構造が同じだから飽きてしまい、すぐアンインストールする。なんだかんだ1番続けていたのってツムツムだったような。無課金でたまたま3番目くらいに強いキャラが当たって地道に育てて云々。昔のゲームもプレステ2くらいまではやっていたが、RPGで真剣に悩むとかはなかった。嫁選びとか。あくまでゲームはゲームだという割り切りで移入できる対象ではない。とか言いつつ、スーパーファミコン時代、ドラクエ5エルヘブンくらいまで進めたデータを、妹が本体に躓いたことで一瞬消えて怒り狂ったことはある。データが消えましたのトラウマ音楽は流れず、何故かその後復活したのだが。あの時代のゲームはかけた時間を一瞬で無に帰す恐怖とセットだったから逆に面白かったのかも。

 

本日、現実的光景で腹が立ったこともある。腹が立つという心の動きもちゃんと観測する期間。スーパーで六缶パックビールを買ったのだが、経験則上、一番手前のものが冷えていないことがあり、買い物かごに入れた商品の温度を確かめていたところ、目の前で、常温の商品を上から補充した店員さんが居た。おいと。常温で買う棚であれば問題はない。消費期限とか気にするような商品ではないし。ただ、そこは冷えていて、すぐ飲みたい人が買うところ。こういう、分かっていて手を抜く仕事をする人にはほんと腹が立つ。能力的にできないとかならちょっとイラっとすることはあっても、手は抜いていないから怒りは沸かない。

 

こういうのを、道に拡がっている人とか、動線開けない人にも感じるのだが、手抜きともちょっと違う気がする。できるのにやってないとか自分の迷惑とも違う。自分に対する迷惑を至上とするなら、相手の能力は加味されないはずで。

 

ここで、昨日読んだ本当の自分になれば病気はやめられるみたいな本で、自分が外に対して怒りを感じるのは、自分ルールが外に対して出てきているだけだという話があったから、これと合わせて見る。

 

僕は仕事を拘束時間の中で何がどこまでできるかみたいなことに置いているから、手を抜くという概念がない。まぁ手を抜くとその分拘束時間が主観的に長くなるという学習からであって、勤勉であるとかの話ではない。

 

さらに、むかーし、某通販の商品の倉庫作業で派遣さんのとりまとめみたいなことをしているとき、上司というか同僚の年上みたいな人が、人が仕事に持ってきているエネルギーはひとそれぞれだから、その上限いっぱいで使えば良いみたいなマネジメント論を言っていたのを思い出した。この人、一昔前は外資の大企業でそういう仕事をしていたとかで、証拠はないが、なんとなく説得力はあった。ちょっとだけ齧ったところ、たしかにそういうところはある。仕事上の人格を見るってそういうことだろうなとか。結果なんて誰にも見られるだから、プロセスとか意志みたいなところを見てコントロールする。でも、そこまで人は素朴な人と仕事上の人を切り分けられない。

 

要は、このスーパーの店員さんは、特に自分の仕事にプライドとか買う人への想像とかのエネルギーを持ち合わせていないということ。苦情を呈するまでもない。後ろの方から買えば良いだけ。

 

後ろの方かから買うのはビールだから良いけど、足が早い商品に対して自分だけが得するようにやってしまうと社会全体での商品ロスに繋がるというのは会計学の本で読んだ。

 

これも道路の拡がりと繋がっていて、この社会で生きているという共同体としての実感がないのだろうなという話。身内だけ良ければ良いってどういう感覚なんなのだろうな。個人主義の台頭のせいなのか。別に田舎の社会みたいに、彼是深く繋がる必要はないと思うけど、身内の外にも同じような人は居るということまでなんで思い至らないのだろう。

 

というのがこの辺りの怒りの根本にあるが、僕は別にあんまり社会的な連帯に力点を置いてなく、無縁的な怒りではある。矛盾してないかって。いや本音と建て前も分かるし、社会って椅子取りゲームみたいなところがあるから、他人の軌道みたいなものを考えている余裕はないのも分かる。

 

シェクスピアの「リア王」、何回過ぎて何回も最初から読み返している。なんとなく、ちゃんと声を頭の中で当てれば良いのではと、今まで聞いてきた声優陣を当ててみている。

 

王様のリアさんは、「無からは無しか生じない」というのだが、これを言わせたシェクスピアさんの意図としては、王様として、なんでも持っていたという観念が思い込みなのではというメッセージなのかもしれないなというところまでは来た。コーディリアは生前相続がされたなかったことで自由になったように見受けられる。

 

 

ぼーっとしていた、ボトムアップの衝動とは別に、夕方辺りに活動的になってkindle読み放題から、Excelのマクロの入門書を見つけてきて、1個だけトレースした。上手くはいかなかったのだが、なんとなく読めるのは、Pythonの入門書を読んでいたから。「人間は初めからできるようにできていない」というのは応用神経学だったか。Excelだったら仕事で空いた時にいじれるという目論見もある。

 

僕が何をしたいのかということを考えるに、こういう自分が特に何も目的としていない経験が繋がっていくこと。現象学的な言い回しでいうと、実在とは現象で、現象とは経験できるものであって、経験の中身は見たり考えたり感じたりできること。この経験は受動的にもある程度行われるが、自分を生きるのであれば能動的なもの。

 

人には必要なことしか起こらないというのは、運命論ではなく、必要だったと解釈できるようになることだと思う。証拠がない自分のナカの過去は、自分でちゃんと向きあってなんでそれが起こったのかということに落とし込む。

 

僕が法律を知りたかったのは、社会の最小限のルールを知りたかったからだったのだろうなという解釈。学んでみたところ、ほとんどが一般社会に還元されていないシステムだった。概念としては面白いが、なんで落ちてこないのかというと、権威による威光みたいなところが人の行動を動かせるという歴史的なものなのかもなって。古参の先輩には勉強していることは言っている(落ちたことはまだ)が、条文を暗記するとか、そういう観念が蔓延っているし、どうも実生活とは乖離していて、全然繋がらない。

 

でも、こういうシステムが人を裁いているのだよなぁ。

 

まぁ、法感覚って、自分と相手の関係から離れた第三者的な視点だから、なかなか難しいとは思う。万引きは窃盗だし、校内家庭内暴力は暴行罪だし、ある内側の社会と公的社会の階層もある。完全な他人にしたら完全な犯罪なのに、内輪だと犯罪にならないのは何故かと考えていくと果てしない。

 

言葉の意味の話でも、学問によって異なるからなんとも言えない。

 

例えば、刑法の故意の話。基本的に犯罪は故意がないと成立しないのだが、この故意の一般語用としての「わざと」というのは何だろうということ。もう少しアレすると犯罪事実を認識した上でやったということになり、この、認識とはなんぞやで、蓋然性という言葉が出てきた。

 

要は、自分の行為によってこういう結果が起こる可能性があると認識しながらということなのだが、蓋然性が程度問題になっているのが気になる。森博嗣さん曰く、工学的には蓋然性は起こり得るかどうかであって、有るか無いかしかないとのこと。全然意味合いが変わってくる。

 

モチベーションという言葉も応用神経科学的には辞書的な意味は意味分からないとのこと。

 

言葉ってなんなのだろうな。

 

「許していない」の話もしたかったが、今日はここまで。

 

読まなくなった方が文字数増えるのは、まぁそういうことだろうな。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。