尊重

 

 

 

むかーし、道徳の「世界からいじめがなくなるには」というテーマの作文で、「ひとりひとりが相手を一段高いものとして接すればまわりまわって世界は平等になる」というようなことを書いた。先生にはそういう世界になれば良いですよね(理想論)って言われたが、今の僕の世界はそういう感じである。この感覚を肯定してくれる本にも本日出逢った。

 

さておき。

 

本にまつわる人との出会いを書いていたからだろう。夢に我も入っているだろうと、いう人物が出てきた。院を卒業したあとにバイトしていた新大阪駅のJRの改札内にあった、今は潰れている喫茶店の店長。夢の中では名前は思い出せなかったが、今は再現できる。

 

この人との雑談はとても楽しかった。かなり哲学的な雑談をしていたし、森さんの本を読みだしたのもこの人の影響だった思われる。パートの女性には、あんな無口な人と良く話しできるなと揶揄されたが、なんのことない、人が自分を見下していると観測される人に心を開くはずがない。お互い様だろうが。

 

まぁたしかに、この店長には本能に訴えかける体質があった。匂いって社会的距離においてはどうしようもないところがある。僕はそんなことより会話が楽しかったからあまり気にならなかった。本は長いければ長いほど良いとか言っていたな。その哲学愛を何故人に向けないのかとは思ったが、人それぞれ。ここが潰れた数年後、別の駅の喫煙所でこの人を見かけた。上の方に時の経過を感じる。覚えられているはずもないと思い、話しかけなかった。あんまり無関係に時空を超えてはいけない。

 

夢の後半は、夢の中の布団が血みどろだったのだが、これは昨日料理中に関孫六さんの歯が指に当たり、あ、やべ切れたかなというヒヤリ体感が反映したのだと思われる。手の指が血にまみれた経験って、あったかな、あったような気もする。

 

目が覚めて、快晴の中出勤。太陽に情緒をあまり感じないのはエネルギーが多すぎるからだろうな。何かに遮られた、何かを通した陰影は好きだが。昨日見かけた、顔の大きさよりやたらと大きい眼鏡をかけた女子中学生と、同じ時刻と場所ですれ違った。昨日は制服だったが今日は体操着で、何故か、「頑張れ」という言葉が浮かぶ。

 

その後は水滸伝について考えていた。たしかに映像化がとても楽しい作品。師匠がかっこよかったとイメージを残しておいたら、王英だったっけ、林冲、楊瞬、楊令(漢字が違う気もする)、と芋ずる式。戦斧を振り回して虎に勝つ料理上手で母親思いの人物とか、石積みの罠が上手い人とか。映像化のしやすさでいうとハリーポッターとも共通項があると思われる。

 

昼休憩時は、雨の時間。公園の池に落ちる雨粒を観察しながら、泡ができるときとできない時の違いを考える。雨粒が落ちることによって水面がはじけて膜を作り。中にたまたま空気がある時に泡ができるのだろうが、凄く確率低いのでは。しかし水面は泡だらけで弾けている。

 

本屋に寄り、「難しい天皇制」を購入。象徴という言葉にまつわる共時性

憲法第1条が規範命題なのか事実命題なのかという話も面白い。法律(憲法は厳密には法律ではないのだが)って、ルールを呈示するものだから、「べき」的なもの。厳密にはべきは当為命題だった気がするが、ともかく。天皇は象徴であって国民の総意に基づくものであるべきというのというのが規範だが、この規範付けって、人は殺してはいけないという規範(刑法199条)と比較すると分かるのだが、「行動」のルールではなく、「内心」のルールでしかない。そう思うべきということを法が決めることはできないのが現代の人間観だから矛盾するよなぁ、だったら、象徴であるという事実命題を呈示しているだけだろうという解釈。でも、事実を規定することに何か意味があるのか。

 

仕事は普通。仕事上の会話も結構楽しんでいる。対話ではないが。

 

仕事帰りは雨は上がっていたのだが、今週の最早番から来週の最遅番の切り替えでやたらと時間ができたため、店長を見かけた駅の中くらいの本屋さんに行くために電車にのった。3駅分の移動をして、一服し、まずは法律棚に寄ってぱらぱら。情報法とかAIの法律が気になりつつ、天文学の棚に行く。専門書というよりは実用書の延長みたいな本ばかりだったが、画像付きの、「宇宙はどういった時空でできているか」という本にした。「宇宙」と「世界」ってほとんど同じ意味っぽいな。

 

宇宙はたしかにスケールはやたらと大きい。地球がある銀河圏の半径は650万光年ということらしいが、測れない、行く時間もないという意味での個人規模では地球のスケールとしての世界と実際にもあまり変わらない。

 

ついでにちくま文庫も見てみたのだがお目当ての本は見つからず、他の本がいっぱい呼んで来る。「人間の条件」とかとても気になる。あぁこれと同系統の、文化の起源は「遊び」であるという本も「難しい天皇制」を買った本屋で気になったのだった。僕は見ての通りめっちゃ人生で遊んでいる。

 

あと、懐かしい本を見かけた。三島由紀夫さんの「新恋愛講座」。この本は大学受験の模試で出てきて問題そっちのけで気になっていた本で、大学に入ってから図書館で借りて改めて読んだのだった。この方向でやれば良かったのに、周りの人間関係がやたらと温いというか止まっていて、滞ってしまう空白の10年くらい。

 

空白というか、ちゃんとふつうのまともな人達だったのだろうと思う。人の価値は自分にとってどうかというものさしで決まるみたいなやつ。このものさしだと安定した人格で居られるが、新しいことは収集できない。

 

僕は本を人のように捉えているが、この「人」の観念には、時系列ごとに自分を導く人物が現れたという前提がある。抽象的な人は尊重すべきみたいな知識ではなく、人は自分を更新させるという体感。

 

ここで対話の話だが、哲学本で、コミュケーションが成り立つのは、相手を師匠として影を追うことによるというフレーズがあって、やっと、ここまで来たかという感慨。議論とか説得とか教育とかではなく、対人における言葉の交換はこういうものだよなという感覚を肯定された。自分の世界に引き直して言語化することではないんよな。解放感。

 

こういう風に言葉を交換できるようになったらいじめはなくなると思われる。

 

だってほとんど誰もこういう風に言葉を遣ってない。最近はわりとこういうこういうものさしの人と出会えてきたが、たぶん当人達に自覚はない。

 

芸術学にも象徴という概念の多様性が出てきて共時性なのだが、象徴という観念の本質は、本来は別のものを同じものとするという作用であって、言葉の機能とも通底している。痛さは本来その人固有のものなのに、頭痛という言葉にすることで、同じ痛みがあるのだとできる、みたいな。これは共通幻想だが、この幻想を信仰できるようになれるのが言葉の神話性。

 

社会では、言葉だけでは信用に足りず、何か他の証拠が必要になる。

これが社会的距離感における人間関係。

 

心理的距離感によって物理的距離感が変わるという記事を読んだが、こんなのふつーに当たり前だと思った。だから、空間をデザインする工学領域がある訳だし。まぁ、僕の時空の捉え方は確かにおかしい。皆さんパートナーが居るので良き。笑

 

ただ、証拠を必要とする人間関係ってどうなのだろうなとは思う。

 

証拠って事実の世界の出来事であり、パートナーが新しくなったことによって新たな体感があったことを事実として積み重ねても、意味の世界は拡がらない。

 

意味の世界とはなんぞやというと、心理的影響値という名の波紋で、僕のこのインターネット世界における存在って、少なからず波紋があるよなと。これによって当人の現実が変わるかどうかは知ったことではないが、意味の拡がりは人格の拡がりではある。だからといってどうということでもないが、存在として尊重してもらっていることは感じられる。

 

で、誰にも見られないところで書くことはできないよなと思った。

自分の中だけにあることは言語化する必要ないし、ないならないで良い気もする。

依存ではなく意志。

 

僕は個人的にやっと自分の目で世界を見られるようになってきたという実感で、認識も絶賛(自画自賛)更新中。これを現実的にどこまで遣うのかはまた別のことだが、それほど人は人を尊重していないと認識があればやりようはあるよな。

 

明日は熊野詣の話になる予定。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。