痛みの比較

 

 

最早番はお出迎えしてくれるアサガオの花の数も多いし元気だから気分が良い。気分の良さは別の原因もあるかもしれない。

 

日記に進む前に、僕が唯一このご時世についての情報源にしているサイトの記事にイスラエルの研究結果が書かれていた。これがほんとだとしたら人々の希望を挫くものだ。検証しようにも、普通の検索ではこういう情報は出てこないしこのサイトも出てこない。筆者曰く検索エンジンの会社がフィルターかけているとか。精査するのであれば引用されている英語の文献を読み解かないといけないが、個人的にはそれほど気にしていないため、そういうこともあるだろうなという感じ。

 

情報が真実かどうかを探るとき、人って何をするだろう。僕がするなら、情報源が違うものをいくつか調べて検証するのだが、ちょっと別のことで調べていてネットで調べると、全く同じ情報が別々のサイトで書かれていた。僕も一瞬書いてみたことがあるが、あぁいうのってWebライターさんが委託されて書いているのだろうな。

 

花の名前とか虫の名前とかだと答えは1つしかないからただ調べれば済む。

 

研究結果と流れてくるニュースのどちらに真実味があるかというと、読み手の味覚次第な気もする。統計処理ってどちらにせよ客観的に1つの答えを出す訳ではなく、観測者が情報のどの部分をどのように切り分けるかによるらしいし、あくまで統計的答えではある。もちろん、単なる個人の主観よりはどちらも真実味は高かろう。

 

お風呂に入りながら、事実と嘘について考えていた。発する側からだと、突発的とか一過性の物事であれば、事実でも嘘でもそんなに変わらないが、継続的になると、整合性の面で嘘の方が遥かに神経を使う。事実であれば情報は足りなくなるかもしれないが整合性は自然と取れる。逆に嘘は詳細に語られることが多いから、その後の事実とも嘘とも一致させるのが大変。

 

受け手が見るのであれば、発する側の有利不利で判断するのが良いのかもしれない。不利な嘘を発して逆に評価を高めるという高等技術もありそうだが、基本的に嘘は有利になるから発するのだろうし。

 

まぁ個人レベルでは、それが事実か嘘なのかより、何をどうして語りたかったのかの方が大事だと思う。社会レベルになってくると、思惑が渦巻くから一概には言えない。科学レベルだと、そもそも事実にそれほど辿りついていない未完成だが、未完成でも価値があるという感じか。

 

そもそも、見たままを描写するだけでも、見間違いという意味の嘘になる可能性はある訳で。

 

 

さておき。

日記に戻る。

 

夢が面白かった。(夢は事実でも嘘でもないよな)

色々と場面が展開したから、最も余韻が残ったエピソードに絞る。

 

森の中の道路を歩いていると、凄く短い蛇がいた。頭にちょろっと尻尾が生えているカタチ。で、もの凄い勢いで迫ってくるものだから逃げる。直線上ではなく行ったり来たりで走ったのだが、結局追いつかれて噛まれてしまう。

 

蛇には経験則上噛まれたことがない。いっぱい見かけたし、この前岡山行ったときにも何匹かにょろにょろしていたが。噛まれたことがあるのが百足で、スズメバチにも刺されたことはある。どちらも小さい頃で痛くて泣いた(スズメバチに関して熱出して寝込んだ)が、いまだったら、どれくらい痛いのだろうな。

 

ともかく、夢の中で噛まれたことは特に痛くなかったが、寝込んでいると毒が回ってくる。どういう毒かというと、喪失感だった。自分が何とも繋がっていなくて、もう生きてられないという実感。希死念慮ではなくただの毒。で、どうにかしようと、起きたところは実家の母屋のお風呂場の前の就寝スペース。実際はここで祖父が寝ており一緒に寝るのが好きだった。ですぐそばの障子を開けると居間があって、居間では親戚一同がだんらんしている。何か話そうとするのだが、ろれつが回らず何も伝わらない。あぁこりゃ駄目だと思ったところで目が覚めた。

 

余韻と現実が馴染んてくると、この喪失感って僕のデフォルトだなと何やら気楽になってしまったという面白み。この繋がっていたと思った対象と実は繋がって居なかったという喪失感は、もともと人と人は繋がっていないという絶対的孤独感と一致する。これは別に悪いことではない。だから、繋げている間だけ繋がるのであり、繋げる意志に意味があるということ。

 

この喪失感という言葉は、もうそろそろ好きな人にラブレターを送るのはとめようかと思っているところと連動しており、この場は僕が勝手に作った箱庭だったから、いわば約束された喪失感でしかなく、もとに戻るだけだろうなというだけ。

 

これがアサガオとは別の気分が良くなった原因。楽しかったなぁって感謝しかない。

 

日常のコミュケーションで電子も含めた手紙が廃れたのって、手紙は相手に対して無防備になるからかもな、とふと。読み返されているときには何も反論とか捕捉できない。だからそれを含めて書くことによって人格が籠っていたのかも。和歌のやり取りとかめちゃくちゃ好き。

 

無防備は相手に対してだけではないのか。現代に生きている人でどれだけ「いま」手紙を書ける人がいるだろう。個人的には僕が読んで僕が読んだ人には書けると思う。厳密には僕は手紙文明が終わった後の世代だから、長く過ごした恋人さんくらいにしか実際には書いたことはないが。今でいうLINEのやりとりみたいなことをガラケーのメールでしていた高校時代。

 

電子メールで用件を伝えることはできても、自分の中にある情緒を書き起こすことはできない。まぁ情報のやり取りの中では需要もなさそうだが。

 

もともと手紙は一方的なものであるという概念からすれば別にラブレターを毎日1通(か2通)発信することも問題はない気がするが、恋愛感情という不純物があるからよろしくないのだよな。恋愛感情は一方通行ではなくなることを中核としているものだし。

 

ただ、ここに在るのは手に入れたいではなく手で触れたいだった。

 

もう過去形で語られるようになってきたあたり(楽しかったとか)、立つ鳥になりつつあるんだろうなという感じ。

 

やれやれ。

 

子供は感情に素直であるというが、自我がない段階はともかく、いまが自分の情緒には自我が芽生えてからもっとも素直だと思う。解明が進んできているというか、目的を持たない感情を見ている。

 

ニューロマンサーは話の流れが全く分からないのだが、「記憶は人ではない」というフレーズが良かった。記憶力は良いのだがアクセスできないというのも、無意識に沈殿している記録と、意識的記憶の関係を捉えている。

 

 

自分が自分であることも更新されている。言語化はとても難しい。個人的に苦手であること、できないと思っていることは、できるために時間がかかるから費用対効果として、やらない方が効率的と判断されたことなのではという感じがしてきている。全然勉強してはないのだが、本の分野で言えば、英語、自然科学で、実地で言えば料理もそうだったし。

 

もともと僕がそういう器だったとは思えないだよな。誰でも続けていれば克服できそう。

続けるができるようになった意味は自分の中でもよく解明できていないが、義務にしなくなったことによると思う。

 

芸術分野はなぁ、僕のナカに外に表したいナニカがあるのかと自問したときに、あんまり無いんだよなぁ。ただ、日記で内観しているところからすれば、引きずり出し方によってはナニカ出てくる気もしないでもない。

 

物語、逃げずに書いてみようか。

今の感じだと、1日1000文字でも、何を書いているか忘れることはないだろうし。

処女作は公開しないだろうが、あえて何処かにとかもありうる。

 

夢の亜種、あしゅ。

自分の中で無対象の突拍子もない言葉の起こりを赦すこと。

 

雨にまつわる物語を綴りたい。

 

まぁ、そもそも世界は読めば読むほど突拍子がないことからすれば、創作は取るに足らないとも言える。宇宙が何故できて、今のところ地球にしか知的生命体が存在しないことを自分なりに解釈したことがある人ってどれくらい居るのだろう。個人的には宇宙をプレゼントされた誰かが作ったものという解釈もありうるとしている。

 

もちろん、どう解釈したところで現状には変化がないし、本を読んだところで何かが劇的に変わることは在りえない。という意味ではきちんと現実には生きている。人は人だし、花は花だ。フィボナッチ数列の神秘は現実として良いのかは定かではない。

 

絶対的孤独が面白いのは、繋がっている相手の世界観の中で生きてなくて良いところにある。逆を言えば、僕は相手の世界観を決めないのだが、それを見出した人は今までいなかった。

 

別に拡げたり高めたりする必要もないとは思うが。

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い貴方でありますように。