本音の本音

 

 

アサガオは雨がお気に召さないらしい。元気に開こうとしているのは見受けられるが、うまくいかず萎んでいる。晴れの日は心の中で「おはようございます(敬語)」と声をかけて出勤するのが、本日はそっとしておいた方が良さそう。見ないふりをした。明日連続で萎んでいたら声かけよう。

 

 

アサガオな何をもって朝を認識しているかと考えると光量だろうな。よくできたメカニズム。ではヒルガオはなんで長持ちするのか。植物は意志で動くことができないから外界の影響次第だが、人間も、時計がなければ今がいつか判断するのは内部と外界の相関しかないよな。イメージしていたのは遥か昔、終電を逃したあとにカラオケフリータイムでやり過ごした朝方と、普通の夕方の明るさは見分けが付かないが、自分の疲労度で今がいつか推定できること。

 

夢では架空の女の子が出てきてイチャイチャしていた。名前が今まで逢った人のアナグラムというか、ごった煮になっていたが、そこでなされている会話は若干オリジナル。そういえば一昔前まで夢に文字が出てこない(出てきていたとしても起きた後には残っていない)はずだったが、何か更新されている。

 

イチャイチャしているのも僕のはずなのだが、何故かそのシーンでは視点が俯瞰になる。夢って主観的視界と俯瞰が切り替わるときがある。他の人のことは知らないが。

 

さておき。

 

昨日の日記を読み返した。

ぷりぷりしていた訳でもなく、人は自分が変わろうとしないと変わることはできないし、母親の人格自体はどうでも良い。問題は、これを踏まえて僕がどう在るかということだけ。

 

僕の根にもそういう精神性があるのは否めないと思ったのが、言わなくても通じるという節はあったなというところ。これは言わなくても通じなければ言葉は意味を持たないから、口をつぐむというところにも繋がる。どんな人にも日記で書いているうちの1割も話していないと思う。

 

今後の試行としては、通じないと思い込んでいるのは僕の内側のことなのだから、言ってみれば良いんじゃないという気安さ。やり過ぎるとアイデンティティの中核を攻撃しているとみなされそうだが、それは僕の人格上攻撃的意図は持たないということを理解してもらえばなんとか(できたことはない)。

 

でも、順調に気安くはなっている気がしないでもない。

気安さとは、外から持ってきたモノサシを振り回すのではなく自分でカスタマイズしたモノサシで生きること。

 

そうして、母親の発言と人格を鑑みると、むしろ一般家庭における一般的な母親に含まれるのではとなる。僕の親世代なのか親そのものなのか定かではないが、通説的見解から別に外れてなさそう。

 

母親は中学校の擁護教諭で平均よりは教養は高いと思うが、言葉が相手にどう響くのかを想像することはないし、ここを考え付くのは発達心理学的な素養とか、実際に自分が言葉に響いたとか、言葉を注意深く使わないと痛い目を見る体感があってこそ。

 

唯物論の世界だが、根強い支持者は在ると思うし別に間違ってもいない。

 

たしかに、人を「ガワ」で判断するのはとても現実的で、実際僕の時系列で「ガワ」以外を気にしてくれた人なぞいない。自分の中を気にしている人は多かったが。普通の類推で、自分に中があるということは、他人にも中があるということになりそうだが、そうはならないのは見えないし感じることもできないからだろうな。

 

中を気にするというは、不機嫌そうにしている態度から内心を読むとかではなく、「ガワ」に出ないその人そのものを読み取ろうとすること。ただ、ヒアリングしようとすることではない。学校どうだったって聞かれたことはあったが、「別に、普通。」以外に答えはなかった。

 

たぶん、自己観の発達が上手くいっていない部分はある。

まぁこれは良い。今は自分の感じとか気持ちとかめちゃくちゃ見ているから。

 

では、なぜ僕は時系列でそんな人が居なかったのにここが気になるようになったのか。

本の中にそんな世界を見出した訳でもないのだよな。小説や漫画にあるのは、中というよりは理想的な「ガワ」っぽいし。

 

僕が中のことを気になったのは、無意識レベルで可視化できてなかったが、父親の死が発端だと思われる。父親の中が分からないままだというところと、これに対して自分の中がどうなのかが全く分からなかった。ちょうど大学受験の頃で、大学入学くらいまでの内心が凄くぼんやりしている。どういう出来事があったのかはいくつかあるが。葬儀云々で休んだ後学校に行ったら、普段全く話していない女子たちに大丈夫だった? と話しかけられどぎまぎしたとか、センター試験時は雪が降っていたとか、二次試験のホテルでややぼったくりだったとか。大学時代も含めて、なんというか流れているままだったな。

 

流れている感がなくなったのはほんとつい最近(年単位)なのだが、ともかく。

 

大学に入った頃、ガワと連動したSNSとは他に、ゲームと連動した匿名的SNSが流行っていた。モバゲー全盛期なのでは。そこで僕は日記を書きながら、色んな人と関わった。ナカだけの交信をすることで、自分のも見えてくる。

 

タッチタイピングもできなかったし、日記も小学生の絵日記レベルの数行しか書けなかったのだが、何とも連動しない自身の言葉ではあった。続けていくうちに文字数も増えてきたのだが、それはそれで、「読んでいる人」の世界観を壊さないようにという思い込み的制限が働く。僕の日記の中に書かれていることに返信しても僕の歓心は買えないのだが。

 

ともあれ、宵顔さんはブログに書いているところによれば鬱憤としてのナカを書き殴っていたとのことで、そういう意味での人のナカのことを読んでいたみたいだが、僕はインターネット世界でナカにあるガワに連動しない善意を見たのだよな。あの人達元気だろうか。もう語彙が全然違うから僕を見つけても分からないだろうな。

 

僕がインターネット世界では羽を伸ばせるのはこういうところにある。

唯物論的世界で、好意的な所作をできるのは、なんというか当たり前のことだし、言わば誰でもできること。ここには自分が攻撃されないようにするという自己防衛的な下心もある。

 

下心は主観的なものだから相手のことは見てない。

 

もう一回帰ってきて、僕の肉体年齢、おそらく母親が姉を産んだ頃と同じくらいで、何も成してないとかいうより、もうそういう大人になりそうという呪縛からは逃れて良いなとなる。

 

子供に勉強しろ、家事を手伝えと言いっぱなしにする語彙は在りえない。義務教育に潜入することはできないから、子供の教科書をしれっと掠め盗って流して一緒に勉強するだろうし、家事に対価がないからって苦情が出てくるということもない。

 

親の権威をどう守るかというところだと、基本的には基準が一定であること。ほんとに危険なことには叱るが、機嫌で基準を左右させない。

 

まぁ、親もただの人間であって、当人が更新することにメリットがない限りそんなことはしない。勉強に意味がないと思っている大人がどれだけ促したところで子供が勉強するようになるはずもなく。

 

下心といえば。

 

宵顔さんの可愛げが半端ない。

だからこそ、ナカがさっぱり分からないし、解釈も無限。僕が恋文送らなくなったからてらいもなく僕の文章を読みに来られるとか。

 

僕、貴方とまぐわいたいという下心ありますよって表明しましたよね、と。

 

あぁ、表明してしまったらもはや下心ではないか。

 

宵顔さんのやたらと可愛い不思議は、日記を読む限り僕の具体的好意は不要っぽいところ。

パートナーさんと上手くいっているし、ちゃんと会話があるみたいだし。

ただ、具体的エピソードがなにやら遅々としている感は否めないが、共同生活ってそんなもんだったっけか。

 

 

やれやれ。

 

交信具合が半端ない今日この頃。

誰かを否定しなくてもつつがない。

 

 

はい、おやすみなさい。

 

気圧の低さに流されませんように。

 

良い夢を。