はとぽっぽ

 

 

 

外に出ると昨日より少し明るい。引き続き雨は降っている。これはと思ってアサガオを拝顔するとやはり元気そうで嬉しい。挨拶して仕事場へ向かう。

 

雨が続いているため、お弁当画像は2日連続非公開。この二日メインには韮を使っていて、処置の中華料理具合は半端なかった。どこかの中華料理やで出てきそう(自画自賛)。マーラージャンではなく。コチュジャンとテンメンジャンを使用。

 

今週は土曜日も出勤だから、明日もお弁当。雨が降ったとしても休憩室は貸切だから画像は撮影できる。メインはやっつけの豚肉、キャベツ、もやしの炒め物だが、多めに作って明日が最後の副菜が美味しい。えのき、霜降りひらたけ、しいたけをバター乗せてレンチンし、オリーブオイル、お酢、ごまふりかけ、ゆかりで和えた、和洋折衷マリネ。

 

バターは宵顔さんが好きとのこと。なにせチューブバター飲むとかなんとか(3年前くらいのブログの話だから、オトナのレディはそんなことしていないかもしれないが。)僕も使っているうちに好きになったかもしれない。人が好きな物を採り入れて、自分の好きにしてしまうというのは、口に入れる物でも結構やっている。どこそこの外食屋さんみたいな括りでは採り入れないが(たぶん当人も美味しさを特定できていないだろうし)。

 

ここ何日かではBOSSのカフェオレ? カフェラテ? の白い缶コーヒー。関西限定でもっと甘いやつもあるが、たしかに甘い。僕が好きなのは、ワンダだとモーニングショットで、BOSSだとレインボーマウンテン、キリンだと金色のボコボコした缶。糖分補給みたいな意味合いなので、人工甘味料ではなく果糖ブドウ糖が入っているのを好む。母親はエメラルドマウンテンばかり飲んでいたな。

 

まぁ書いているように、こういうのは、絶対それを食べる・飲むみたいな習慣ではなく、気分によってどうとでも変わるくらいのもの。絶対性があるのはキリン一番搾り(ビール)だが、居酒屋に行って生中がアサヒだったとしてもちょっと萎むくらい。キリンは居酒屋界隈だとマイノリティな気がする。煙草で僕が吸っているJPSほどでもないが。煙草も本の師匠が吸っていたのを貰って採り入れ、それまで吸っていたマルボロ(金)から鞍替えしたのだが、このマルボロ(金)も大学時代の友人が吸っていて採り入れたものだったりする。

 

自分の好みとは、という感じはあるが、最初から好きな物なんて在る訳がなく、きっかけがないと好きかどうかは判別できない。自分の好きな物について、いつから好きになったかって、全部言語化しようとすると難しい、いや簡単、どうだろう。僕にとってはまぁまぁ簡単な分類。自分のガワのことだし。

 

さておき。

 

ふひひ。失礼。

 

変な笑いがこみ上げても仕方がないご飯を2冊も確保した。

 

1冊は、焦がれていた刑法総論の本。文体は他の本で知っているから直に吟味する必要ねぇわとなり月も変わったから楽天ブックスでポチった。

 

刑法が存在するのはどういった目的なのかという冒頭で、現実的には事後規制だが、現に終わってしまった犯罪を処罰することにより、言語による将来の人の行為を統制することがメインだとあった。あと、事前に規制することはたしかに望ましいことだが、コストに見合わず、事後規制は社会的なコストが安く済むってなかなかぶっちゃけているが現実的で地に足が付いた考え方で好感が持てる。

 

良いことばかり言う政治家って全然信用ならないのはこういう文脈で、僕は判断する情報をたくさん提供してもらった方がこの人ほんとのこと言っているなと思うのだが、政治学というか行動経済学で言うと、否定的な情報を天秤にかけるのも思考コストだから、傾向として好感を持たないというのも分かる。

 

考えるって、肉体的動作とアナロジーだから、疲れるんだよな。

日常的に歩いてない人が少し歩くと疲れてしまうのと同じ。考えなくて他責にできる方が楽。

 

個人的なコスト概念と全然違う。

何かに役に立つ目的で考えたり歩いたりしている訳ではないが、結局外からの強制、安寧? って、内側のモチベーションが低下する。別にやらされている訳でもないのに、やらされていると思い込むことによってかえって余計な疲労コストが生じる。

 

人間という仕事とか。

 

色々脱線したが、刑法という概念も美味しくなってきたという話。

法律の解釈も現実の解釈と同じで、最終的には当人のモノサシに依る。

 

 

もう1冊。

 

昨日、「時の他に敵なし」を読み終えた。翻訳者さん曰く、「2回は読むべき」ということだが、今のところ続けて読む衝動はなかった。「翻訳は精読」だという言はとても好感があったためおそらくもう1回はいつか読むと思う。

 

そうして、リブロに狩りに行く。

 

良い本あるかなーって思ったら、一択だった。森見さんの「熱帯」。

 

冒頭をちらみしたら、「千夜一夜物語」がでてきて、この本僕も最初の方しか読んでないわとなったのと、文体が美味しいに決まっているから。

 

エッセイみたいに本人が登場人物として出てくるのだが、エッセイに化体した虚構ぽくもあり、最初からなにやら虚実にブレがある。美味しい。

 

物語は学生時代に「熱帯」というへんてこな小説を古本屋で見つけて、読んでいたら最後まで読まないうちに失くしてしまって、その後十何年間見つかっていないというところから始まる。ここで思ったのは、僕も作った物語を10冊くらい製本してインターネット世界から現実に流してみるという空想。誰に当たるかなって。この目的だったらモチベーション上がるな。

 

ともあれ。

 

森見さんの文体、昔の方がかくかくしていた。四畳半の呪文のような言いまわし。ただ、本質としての顔は全然変わっていない。

 

ここで、変化と不変を想う。

人は、時系列で経験という情報は増えていく訳だが、経験自体を変化とするのは嘘っぽい。

いや、もちろんそういうものさしでも良いが、体感情報で更新されるのは当たり前のモノサシでしかなく、当たり前から離れた自分の本質に変化はない。

 

というのも、僕がそうだから。

情報を更新したことによって、結局変化していない自分に辿りついている。口下手であるというレッテルも、話そうとすれば話せるのは最初からだったろうし、経験で外付けしたもののようには思えないところ。

 

たしかに、変化って何処か生活圏の外に行った、外での体感があったことで体感されるものだが、これを恒常的な変化にするためには、その変化を維持しないといけない。

 

維持できずにアーカイブになっただけの情報って変化になるのか。

 

僕の中では、この維持できるかどうかの切り分けが当人の本質かどうかとしている。

自分でその思想を続けているとか、何かを現実化し続けているとか。

 

生活が義務になったら無駄なコストが消費されるわな。

生活に疲れるという概念が無くなった僕は、もともと生きること自体に不具合が無かったらしい。相対的(関係)に疲れるのは、皆疲れるものだとしているから、なのか?

 

最後。

 

あだ名のことを考えていた。

 

僕は日記を書く上で、個人情報の問題でてきとーなあだ名をつけるのだが、基本的には特徴で捉えている。「先生」、「本の師匠」、「先輩男子」諸々。

 

では、宵顔さんはどうなのだろうと思うと、花からのアナロジーって初めてっぽい。

かなりオリジナル(当人に好まれているかどうかは知らないが)。

 

で、匿名的世界って、自分のことを名付けることができるよなって。

この名付けで見たとき、ちょっとその人の本質が読み取れそう。

 

自然現象を名付ける人とか、自分の本名のアナグラムだとか、全然違う他人とか。

きっと連動しているよな。

 

僕は、もはや本名でも良いのだが、昔のSNSはたまたまその時に読んでいた小説の主人公だった。「ワタナベ」とか「森中領」とか。今や書くための道具(字が画として好きという理由はある)。

 

名前を決めることは、定義することなのだろうか。

もっと越境しても良いのかもしれない。

 

結局は、もともと僕は人と連動しなくても自分で在れたのだろうなというところ。

申し訳ない感。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

安らかでありますように。