明暗

 

 

 

早朝のお月様は幽霊みたいだ。幽霊は統括的に定義するのであれば、「現実(とされているもの)との差分」だろうか。人の現実認識というか事実認識は、受け入れやすい、もしくは分かりやすい、あるいは、そのように見たい。

 

 

スーパーで広告の品だったブランド鶏のもも肉を買った帰り道、一軒家からビーフシチューの匂いがした。カレーと違うのはミルクの風味だろうか。ということで、夕飯はチキンのカレーシチュー風にした。下味をつけた鶏肉に小麦粉を揉み込み、バターをしいて弱めに炒めつつ、茄子、玉ねぎ、ししとうを加えて少し炒める。なんとなくタイミングを計って水を加え、コンソメ、カレー粉、オリーブオイル、、牛乳、醤油と砂糖を少々。副菜はきゅうりの酢の物。ほんとはリケンの乾燥わかめを戻して足すつもりだったが、切らしているの忘れていた。

 

それにしてもご自愛くださいって言われるとなんだかむずむずするな。労わってないつもりはないが、気遣いがありがたくて。

 

僕の日常、たしかに外から見ていると急いで生きているように見えるのかもしれない。歩行速度とか。スーパーで悩むこともなく動線を塞ぐように重なっている人達にプレッシャーをかけている。このご時世で良かったのはスーパーは物を買うところであって談笑する場所ではないといういわば当たり前の機能なのだが、一緒に何かを買うことって会う目的にされるのは今ではなんとなく不思議な気もする。それを言うとご飯とかもなかなか微妙な境界になりそうだが。

 

本当に会いたいのであれば、何をするでもなく会えるのでは。

素朴な観測として、つぶやき場とかで、「人と会った」とされるとき、必ずセットで他のことをしている。「美味しい物を食べた」、「どこかに行った」などなど。

 

僕は酔っぱらった宵顔さんを見てみたいという目的のために鴨川縁のベンチで飲むのはええなと思うが、もう寒そう。僕が会ってみたいなと想う文脈には他意がなくて良かった。

 

こうやって、ここ3年くらい日記が皆勤賞で、考えたり自己分析したりすることで頭の中が忙しくないかと言われたのだが、個人的な感覚としては忙しくないからこそ考えが言語化されるということになって、寧ろ暇人である。でも、他人が僕と同じことを継続していたら、たしかに、少し頭を休めた方が良いのではご自愛をとなるに違いない。

 

これは、一般的な思考と僕の思索は違っていても言語化すれば同じ現象だからだろうな。文体としても違うのだが、文意としては何かを思考しているとなるし。

 

僕が想っている一般的思考は、目的が最初に設定されてそれを解決する道筋のことだと観測している。悩みもそうだし、一時期流行ったと思っている論理的思考もそうだし、要は、自分の外として考える所作。ただ、こういうやり方は結局もともとの価値観とか経験則の可視化みたいな意味しかない。未知には向かわないのだよな。未知は未知なのに、既知の枠に押し込めようとすればしんどい作業になる。

 

僕の思索はこれといった目的がない、ただの「脳内散歩」みたいなもの。自分の中を景色みたいに観て、それを言葉としてスケッチするだけ。外のことではなく、もともと在ったものとして捉えている。

 

言葉のそもそもの機能を何かを言葉として指示ないし可視化して共有できるようにするということとすれば、自分の中にないものは言語化できない。言葉の物化は語彙の多様化で自分の中にないものでも自分の物とできることだが、そういう風に扱う限り、思考は頭の中をごちゃごちゃにするだけになる。

 

他人の頭は覗けないから一生分かることはないが、人の中にはこれくらいの脳内世界が景色みたいに存在しているのではと想う。これがない、制限されているのだとすれば、それは当人の「信念」によるものなのだろうな。

 

解放、とか軽くなるという意味は、自分のほんとが社会通念とほとんど連動しなくても良いということ。ハッピーだと言語化、公開しているほどあんまりそういう味がしないのは、ハッピーを相対的に捉えているからなのだろうな、とか。

 

閑話休題

 

辻村さんの次は、小学校の同級生が成功しているのを取材する主人公が、昔は地味で「イタイ霊感少女」だったのに、綺麗にしているのが滑稽だ、どうでも良いと評すのだが、どうでも良い人を「滑稽だ」とは評さないよなぁ、結局意識しているよなぁとなる。

 

そうして、読書時間の最後に置いているのがこの前京都に行ったときに全然読んで居なかった伊坂さん。伊坂さんは基本的に暗い。明るい話も書くのだが、その中にも暗さが滲んでいる。世界の理不尽さとしての虐待と、中和要素としての超能力。超能力が現実離れしていないのも良き。家庭内って、ほんと1つの小さな国家のようなものだからある程度介入できるようになった今の世界はまぁまぁマシだと思う。どんな家庭で育ったかはその人の中の当たり前として、信念で変えない限り一生付きまとう。

 

ということで、僕も良いオトナなので、世界が美しさに満ちているとか、暗いところが何もないとはしていない。ただ、暗がりは果てがないのに、自分の中の当たり前の暗がりを暗がりとしているというのはどうなのだろうと思う。既定以上の暗がりは探せばどこにでもあるし、不幸は比べるものでもない。

 

世の中にはもっと不幸な人が居るとか、前向きに生きようみたいな一般論ではなく、まず誰かと比べることができない自分を見てあげましょうという話。現実化されない自分は自分にしか見えない。

 

僕はあまり大っぴらにはしないが、自分を我ながら凄い奴だとしている。

何かもともと優れているではなく、見えるように世界を捉えられること。

(宵顔さんが見ている世界も面白そう)

 

どうでも良いが、最近の漫画に異世界チートが多いのは、キリスト教の免罪符時代を彷彿とさせる。そんなに現世で自分自身であることを絶望しているのだろうか。何かに依ってないないと自分の価値が分からないというのも何か病んでいる感。面白く感じてしまうのも環境によるのか。転生系のアニメでいうとリゼロは面白い。

 

キルケゴールさん曰く、自分に絶望していることが認識できないことも絶望に含まれるとのことだが、相対化して自分を捉える限りそうなるわな。

 

病みの話。

 

僕は暗がりに生息している人の方が割と合う傾向がある。ギャンブラーは合わないが。そういう運が皆無というか、そういう指標ではない。

 

そういう人達と接する環境にあったとき、自然と僕もそういう傾向の人種なのだろうなと思っていた。アダルトチルドレン然り、境界性なんたら、サイコパス、ソシオパス云々。

 

ただ、僕は別にリア充ちっくな花見とか花火とかの集まりもやったことはあるし、集団の中で生きられないということもなかった。詰まらないだけ。

 

という感じで、何故暗がりに生息している人と合うのかというと、僕が暗がりにしか生きられないという訳ではなく、社会的にマイノリティーの人は自分を個人として認識せざるを得ないから、僕のことも個人として捉えてくれるというところにあったのだろうなという感じ。

 

でも、どちらにせよ問題としているのは「同種」かどうかだから、あまり違いはない。僕はいわゆるオタクにも含まれるのだが、オタクのコミュニティには入りたくない。内だから大事にするという観念も何か通念としてのフィクションめいたものを感じる。陰謀論よりもっと壮大な神話論。

 

僕はどちらの側でも都合良い人として扱われた感があって、自分で在るために1人になってみたらとても世界が気楽になってしまった。これが強がりだって言われたことがあったため、もう一回眺めてみたが、自分の存在の補強のために他人を遣うのは無理だわ。

 

いや、当人達はどちらにせよ自分を生きているとしているのであって、そこに対しては疑義はない。巻き込まれるのが困るだけ。

 

やはり、僕は月の人なのか。

長く過ごした恋人さんがそう評していた。

 

異星人として人のことは好きであるで良いのか。

 

なんだか、ここで終わるとイタイ人になりそう。

(別に構わないが)

 

僕の異星人気質は、別に自分の人格が他人に認められなくても問題ないとしているところ。認められるの意味合いにもよるが、比較対象の中で暫定の1番になっても仕方がない。何も無くても固有値として捉えられる方に希少価値がある。

 

あと、一般的というか統計的に捉えた人観って具体的な人を測るには役に立たないのではと思ってきている。心理学とか行動経済学とか哲学とかは、一般論として収集すれば良いだけで、それを剥がした具体的な人を捉えるのが大事。

 

僕はそこまで世界を一般化できない。

まぁ、読むことは一生続けるだろうけども。

 

そもそも人って、自分と切り離した人として他人を見られるのだろうか。

僕はそういう風に見たいからやっているが、僕がやっていたところでそれが通じることはほとんどない。

 

もはや自分が健常なのか異常なのかは知ったことではない。

 

自分を見つけなくてももともと在っただけで良い。

 

では。

 

おやすみなさい。

 

より良き自分でありますように。

 

 

 

 

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