無理しない

 

 

しとしと降る雨。雨に濡れたセイタカアワダチソウは少しくすんで見える。心もしずかな一日。

 

 

自分がしたいことが取るに足らないことにしてみて気付く。これは現実的な意味が取るに足らないという意味と、エネルギー消費が取るに足らないという意味が未分離。

 

昔を再現し、もっと昔が再現される。

 

ニッキが更新されていて、二度目前のカルピスのように味わう。姉妹が会って買い物をした後、お互い家に待っている人が居るというフレーズがあった。具体的にこの2人に待っている人が居るというのは良いことだと想うし、抽象的な一般論でもそう想う。ただ、僕がいま待っている人が家に居るということを求めているのかというと、何か違う、何故だろう。

 

僕にもパートナーと生活をしていた頃はあり、たしかに楽しいし嬉しいことだったと想う。狭いし学生の貧乏生活だったが、嬉しい義務として、毎日早足で、時々おやつをお土産にすることもあり。ただ、どうしても一過性のものという観念はあったのだと思う。もう少し色々きちんとすれば良かったが、当時の僕は霧散している感じだったし。

 

そうしてさらに遡った、もともとの最初の「家」環境にたどり着く。暖かさを感じなかったというのは書いたと思うが、幼稚園の頃、小学校低学年の頃に家に着いたとき、誰かが迎えてくれたことは少なかったなぁとなる。母親は公務員だから帰った頃には居ないし、父親も農家だから居ない。お祖母ちゃんは家のすぐ下の加工場で近所の人達とお餅を製品化していたし、お祖父ちゃんは母屋に居たかもしれないが、帰る家ではない。別にネグレクトとかそういう意味合いではなく、近所の人達全員知り合いみたいなものだし、家という括りがもともとなかったのではと想った。

 

だから、お帰りなさいと言ってくれる人が居たことが新鮮で良かったのかも。

 

小学校高学年くらいになると、ゲームボーイとかで1人遊びできるから家に誰も居ない当たり前さに馴れている。夕飯は必ず全員そろって食べていたが、それはそれで食卓という義務制みたいなところはあった。テレビは流れていたから夕飯時に放映していたアニメを見ながら食べて、食べ終わると解散する。高校くらいに家が建って、1人部屋になったらそれこそ居間は居着く所ではなくなった。

 

結局は、物心が着いた後ではなく最初の所なのだと思う。おそらく誰も居ない家に着いて荷物を置いて歩いて1分の母屋で世話して貰って居たのだろうと、常況証拠から予想できる。物心ついた後も、家より母屋が居心地良かったのはそういう馴れなのか。家の二段ベットで寝るのはしんどかった。

 

まぁでもこういう義務感が家のセットであるという最初を意識できれば、一緒に居ると安心できる人よりも、一緒に居たい人と一緒になり、その意思を継続するようにすれば良いだけ。警戒しなくて良い人というのは僕にとりハードルは低い。これも何かの慣れなのかもしれないが、よく分かっていない。

 

人と一緒に居ると制限かかるという檻感もおそらくここから来ている。一般の人であれば全人格的に合わそうとはしないし、何か行動が縛られるくらいの義務感で済むのだろうが、僕は性向にも合わせてしまうところがあった模様。何々するのが嫌だとかしんどいとかの単なる愚痴を真に受けて、そうか、これはしんどいことなのかと合わせてしまった。

 

今や、先延ばしするという傾向だったのが嘘のように稼働してくれている。夏休みの宿題を最終日に一気にしようとしていたのは誰に合わせていたのか。それとも自分を怠け者に見せて下げる必要があったか、まである。

 

いや、別に勤勉とも違うから怠け者に含まれても問題はない。

勤勉とは別のベクトルで動いている。かといって研究者気質でもない気もするが、これもまだ意識できていないだけかも。瞬間を生きる楽しみって、自分の未知に接する快楽みたいなものだろうし。

 

これも対策ははっきりしていて、僕に劣等感を抱かず、自分と切り分けて僕を見てくれる人。自分が忙しくしているのに相手がぐうたらしていることに対して怒りが芽生える人はきっと無理。自分にとって下で在って欲しい人と一緒に居たい感覚は分からないでもないが、僕は真に受けるのでアウト。

 

なんというか、僕はほんとうに1人で大丈夫な奴なのか、いや、人は現実的な関わりを特定人と持たないとやっていけない。漫画のフレーズで「孤独になりたい人は居るが、孤独に耐えられる人は居ない」とあり、現実的な孤独になったことによって自由になった僕はなんだろうとか、悶々としていた。

 

ただ、現実的な関わりのほとんどが社交的な意味合いでしかないとすると、そういう関わりに温もりを感じないだけで僕は自分が孤独だとしていないような気もする。うん、今の方が全然孤独ではない。

 

なんとなく異常めいてくるが、「存在を待っている」は、現実物理では玄関で待っているということだが、存在をもっと広く捉えると、僕の文章の更新を待っている具体的な人も関わりとして十分過ぎる。これって僕が更新する限りという意味で考えればただのインターネット世界の読み物なのだが、例えば1ヵ月ほどインターネット世界から離れて帰ってきたとしても迎えてくれそうな安心感がある。

 

義務ではない継続的な関係性。現実世界においてももう何年も連絡取っていないが、きっと送れば返ってくるだろうなという友人がいて、それと似ている。お互いが存在を承認しているから、具体的な関わりがなくても問題ないということ。自分の為の相手ではない。

 

こういう風に人を捉えることができる人は一定数居るわけで、現実的な関わりとしての友人間にもまだ余地はある。

 

いや、これを認識してしまうと、もうただの肉欲とか社交とか薄味過ぎるという次第。

なんだか、宵顔さんを好きになった縁起が可視化されてちょっと恥ずかしいわ。朝起きてから素面で宵顔さんに挨拶文を送ってみるというのが取るに足らないことだったのだが、暖が取れてしょうがない。

 

僕は僕で在って良いのは自分で許したし、これを外向きにしても良いのも分かる。ただ、現実的な居場所とか、精神の拠り所になるとあえてそれが違いますよとかにはできないし、僕はそういうところに重きを置いてないから流れて良いとなってしまっていた今まで。

 

家に居場所が特になかったところから来ている精神性だと思うのだが、僕は別にそれで問題なかったらしい。移動しながら世界を眺めるのが楽しかった。社会に出ると居場所の椅子取りゲームになってそれほんとうに安心な居場所なのかって。

 

法律談義に繋げて見ると、契約って安心の為にあると言える。恋愛感情がひと時のものだと人は経験的に知っているから、婚姻という契約をすることによってある程度の永続性に安心する。これは法律書ではなく行動経済学に書かれていたのかな、法律書はそんなこと言わない。

 

個人的な感覚論としては、安心は三次元空間にはないと思う。三次元的な人も物もいつか無くなるから、疑似的な永続性としての安心でしかない。

 

というか、安心ってそもそもなんだろうな。

もっと刹那的に捉えるのがしっくりくる。

 

やれやれ。

 

静かな心持だったのに、書いているうちにのほほんとなってしまった次第。

僕は孤独ではないし、孤独にはさせてあげない。

 

思索で何かあるかな。

 

消費税を無くすという演説については、小難しくなりそう。というか僕もあまり分かっていない。消費税アップすることで国の財源が増えたことなんてあったっけという素朴だけ。どこに行っているのだろう。国の言い分が正しかったことでどれくらいあったのか。

 

経済のメカニズム、もうちょっと認識しないと言語化できない。

 

辻村さんの続きとしては、ストーリーとは関係なく、旦那には言えるけど友達には言えないというフレーズがあって、長く過ごした恋人さんが貴方は恋人であり友人にもならないといけないと言われたのを思い出した。あと、直近の元恋人さんが友人に僕との性事情を漏らしていたこと(全然抱いてくれないみたいなやつ)。

 

こういう発話を分割して小分けに語るというのは、環境的神話だと想う。ぶっちゃけた発話が本心であるということにはならないし、空気感に合わせて言ってしまうこともある。本心であるのは確かとしても、場の空気に酔ってしまっている感はある。

 

僕は言いたくないことはどんな空気感でも言わないようにしようと銘記している。

この銘記、現実世界にも反映するから、信念の言語化は世界を変える。

 

僕はもっときちんと僕として世界に生きるべき。

 

もう1個作成中のWEBページは遅々なのだが、たまたまこの前撮った海の画像が背景として良い感じ。ほんとはミクシィの背景画像(長く過ごした恋人さんが撮ったやつ)にしようと思ったのだが、デジタル画像も劣化するみたいで鮮明にならなかった。卒業ということなのだろうな。

 

 

今日の日記、かなり楽しかった。

 

そういう感じで、おやすみなさい。

 

アマニモマケズ楽しんでいますように。