不可逆性

 

 

無根拠のエネルギーを原動力とする。

 

お米をセットして炊ける間に、水が切れていたためコンビニへ。お茶と水となんとなく苺入りのヨーグルトを買った。帰ってきて青梗菜と人参の味噌汁、ナムル、納豆、目玉焼きで朝ごはん。いただきますをして、ゆっくり食べる。新米うんまい。

 

Excelでかちかちしつつ、集中力が高まるというBGMを聞く。ときどきもぞもぞ。民法を写経していると何か想起されるものがあるな。ついでにスキルアップで目次を付けてくリリックしたら飛べるようにした。

 

昼ご飯は、会社から支給された小豆島の物産。オリーブグリーンカレー。ここでやっともやし1袋としめじのナムルを食べ終えた。グリーンカレークリーミーで甘いのだが、後が辛い。とろみもない。ごちそうさまでした。

 

そのあと目覚めの本を一気に読んだり、かちかちしたり、漫画を読んだり、無為に過ごす。

楽天で注文していた判例小六法が届いた。ほんとはもう1冊の方が今日届くと良かったのだが、どうでも良い。

 

夜ご飯のメインは、豚肉と青梗菜とキャベツとカットトマト缶でコンソメ風の炒め煮。副菜は、えのき、舞茸、エリンギのバターめんつゆにお酢と砂糖を加えてマリネ風。料理には作った人がどこで生きてきたか、どう生きてきたか出るというが、前者はもはやあまり読み取れないような気がする。後者は、美味しいより優しい味わい。我ながらそうなのだから人が食べたら余計にかもしれん。特に調理そのものの基本は習得してないから完全な我流だが、慣習的意味合いでなく、自分が作ったご飯が他意なく好ましい。

 

そうえば、僕はあんまり何か教わったとか導かれたみたいな存在が具体的な人として顕ていないなとふと思う。文章もそう。ただ自分で試行してきただけ。人に読んでもらってどうこうみたいなのは外付けだったと認識されたし、ただ、僕にとっては生の表現として言葉なり文章が使い勝手が良いというアテがあったのだろうなという感じ。まだまだだが。

 

なんで人生上のガイドが居なかったのかと言うと、都度都度の日常生活をガイドとしているから、人として現象される必要があまりなかったのだろうなと。本の師匠とか、恋人さん達からの教えみたいなものはあったが、一般性はない。本の師匠が本の読み方を教えた訳ではなく、ただ、本をもっと読んでも構わんのやでという姿勢を示してくれただけ。まぁ本の師匠ではなくてもどこかで誰かが示してくれた気もする。もしくは自分で気づくか。

 

 

こういうことを考えているのは、目覚めの本を読んでいると僕が日記に書いているようなことが書かれて、おー、となりながら、ただ、この著者も具体的なスピリチュアルの先生が居て、瞑想なり修行なりをして辿り着いた境地なのだろうなと思うと、どうして僕はここに来たのだとなったから。

 

これが凄いとか偉いとかはない。そういう相対的観念は「エゴ」という幻想らしいし、比べない「ただ在ること」に辿り着くのが悟りとのこと。試験に落ちたのが分かった感覚のまんま。

 

これがどういったプロセスだったのかと言語化を試みると、僕が「読む人」だからということなのかもしれない。あるがまま読むためには、エゴは邪魔になる。漫画アプリのコメントを見ていると、常識的にはとか普通とか生理的とかと前置きしつつ、物語を「受け付けなかった」ことを正当化しているのが散見されるが、エゴを通して物語が捉えられている。だから、自分にとって都合が良いメッセージを強化してくれる物語が好まれるし、嫌いな物語を読むことによってもエゴの正しさが強化される。

 

物語を物語としてあるがまま読むとき、そこにエゴ的な自分のフィルターは無い。だから女の子の物語も読めるし、というかなんでも読める。あえて水準落として書いているのはちょっとノイズが走るが、これは別の話。

 

まだ若干抵抗が残っている感じがするから、書を読むときに自分を抵抗としないようにするのは試行中。

 

エゴ的な自分が自分で無くても良いというのは、自我の死みたいなことで悟りのプロセスは破壊にあるというのは分かる。僕は逆のプロセスで、もともとエゴみたいなものは無かったが、エゴがあってこその人という観念で生きるべき観念で生きようとして、エネルギーの不和が起こった20代。思春期特有の自我の揺らぎのまま生きているのかと解釈していたが、そうではなかった模様。

 

悟りのプロセスの中で、エネルギーだとしていた、目的、信念、観念みたいなものが幻想でしかなかったと認識されたあと、そういった条件付けがないシステムが再構築されるとのこと。

 

これもはっきり認識していなかっただけで、とっくにやっていた。文章を書くこと、料ること、なんなら仕事も含めた日常生活を送ることについて、疲れるという感覚がない。何かの脳の異常なのかと解釈すべきなのかと思っていたが、条件付けがなくなっても人間は動けるのを知ったことは良かった。

 

こういうのは自分をコントールできるものという観念を手放すことで起こるとのこと。これも自然にやっていた。ご褒美をあげないと稼働しないのは人間としておかしいのではないかと書いていたような。内部は自分で在ることに任せている。任せた方がむしろ不具合がない。

 

なんか面白いなと思ったのが、エネルギーのシステムが再構築される前後で、一定の人には不眠症が起こりうるという話。たしかにすげー寝られなくなった時期があった気がする。睡眠時間を確保しないといけないのも観念なのか。そうして、ここから離れることで逆に安眠がもたらされる。

 

もっと面白いのが、感覚が鋭くなるとか。たしかに感覚過敏になった時期がある。今でもそういうのは否めない。本日だと出かけ際、外に出て歩いているとカツンと後ろで音がして、コナラのドングリが落ちる音だった。なんか好き。

 

存在がヒーリングになるとか、人の中身を感じるようになるとかは、どうなのだろう。

僕の文章体としての存在が癒しになっているのであれば良きだが、どうだろう。御神木とか評されるということはそういうことなのか。なんか落ち着くみたいなことは現実的にも評されたことはあった。

 

人の中身は、そう読み取れるというだけであり、たしかに何かあるのかも。美味しい居酒屋レーダーは、佇まいからどういうことに気を付けた店なのかというの読み取っている。言語化すると離れていく感覚だと思っていたからあまり囚われないようにしていたが、そういうものでもないらしい。

 

ただ、こういう非言語領域にあえて流されなくても良いよなというのが次の試行だった。具体的には、人の愚痴とか怒りの波長に同調(同情)せずにシャットアウトして良いよなと。

 

これについて目覚め本は、悟りとは日常生活で現実的な自分に対処することも含まれていると謡う。やはりきちんとした賢者。要は、自分が現実的に避けていることに向き合わないといけないし、読むことは止めなくて良い。

 

僕が人間関係を避けたのは、僕が傷つけられるからではなく、僕が素朴に在ることで人を毀損することが嫌だったから。在ることを好意的に捉える人より、劣等感を持ったまなざしで見る人に価値を置いている。これももちろん幻想的な関係観でしかなかった。僕が自分に制限をかけているのはきちんと僕を見ようとしてくれた人に失礼だったし、他人が僕ごときで傷付くなぞ、自己評価が負の向きに誇大化している。

 

翻って、人によって自分が傷つくべきという鏡になっている。

対他人に対してだけ絶対的劣等感を抱くべきという規範。

 

いまだったら、もう少しうまく立ち回れるはず。

この年代で自分が毀損されるほど僕に影響を受ける人なぞ、そんなに居ない、はず。

 

くるくるして申し訳ないことだが、母親に対しても現実的な息子と会いたいということであれば会っても良いかとなっている。時間がないなんてことはないし、サービス精神。時間は自分が時間を意識している間にしか存在していない。

 

僕の中では、実際に会うことと存在が触れ合うことはあんまり関係ないのだが。

いや、これ、感覚的には受け入れられないと思う。

 

ただ、僕の文章を読み続けている人(どれだけいるかも知ったことはないが)は、僕の存在に触れている訳で、それを何某かの意味としているのでしょう。別に具体的に役立つことは書いていないつもり。具体的に役立つという指標もどうなのかと思うが。

 

分離と非分離の観念は神学的になるからアレだが、僕が同情という心の動きを忌避しているのは、前提として自分と他人を分けた上で、自分の感情の中で世界を捉えているところ。同情されたら、それは貴方の中の領域ですよねとなる。同情が嬉しいとすれば、幻想の世界の中で生きている。

 

ただ、こういう観念を語るとき、昔は神様を媒介にしないとできなかったが、今はそんな存在を介さなくても語れるようになったのは進歩していると想う。それを語る言葉(観念)がなかったから神様が創造されたと考えると割としっくりくる。

 

そう、僕は、ここからまた現実で人間関係を再構築していかないといけない。

どうしてくれようか。旧来の交友だったら、もう自分を制限しないようにしないと失礼よな。

 

自分自体の存在についても失礼はしないようにしていると、思い出を昔とできなくなった。

 

もう後戻りはできない。

 

 

はい、おやすみなさい。

 

元気でありますように。

良い夢を。