疎通

 

 

昨日の日記、天動説と地動説を書き間違えていた。世が世なら焼き打ちかもしれない。設定された自己(地球)を中心に世界が回っているという信仰が天動説で、宇宙の一部だとしても(自己)は在るというのが地動説。まぁ、書き間違えたところで文意がそれほど変わるかというと、なんというか微妙なところ。違いが僕に影響する訳でもないし、たぶん言葉を追って読む読み物でもなくなっているし。

 

言語が人間の疎通ツールとして拙いというつぶやきを見かけた。もっと使い勝手が良いツールを持つように進歩しとけ人類みたいな。理解はできるが、本当はツールというよりソフトウェアの問題な気がする。人間自体が目的を統合できていないから言葉も扱い切れないのではないか。個人的には、言葉は拙いではなく過剰なのではという感じ。人間にはまだ早い。この話長くなりそうだから後にしようか。

 

ぬるぬるは少し収まった。ほんとにこんなに軽く生きて良いのか、大丈夫かとはなる。女子トークは相変わらず誰かの粗をあげつらって肴にしていて、少し前(数か月レベルの)であれば耳に毒だわと重くなっていたはず。この波には全然堪えなくなった。単に、おー、主人公(ヒロイン)的な人生過ごしているなぁというだけ。人の粗を語ることによって自己の特別性(悲劇性)を承認する。都合が良いと思うが、僕も別の軸で都合良く生きられるようになったから、違う星の人として観測できる。

 

きっとこの雑談に参戦するようになったら、僕はいじられるキャラになるのだろうなという歴史からの符号がある。のほほんとしているし自分語りもしないから牙がないように見えるのだろうな。たしかに攻撃して快感を得るみたいな性癖はないが、いじられて快感を得ることもないから、ここも動かして良いのかもしれない。好きに解釈されれば良いとしても、材料はもうすこし提供してスクランブルさせて良い。

 

ただ、隙をみては分かり易い自分に戻ろうとする心の重力を感じる。これは僕だけなのかもしれない。僕の形成しているエゴはネガティブ過ぎてポンコツ。これでは何もできなくて使い勝手悪すぎる。人って基本的に人を褒めないから、貶された自分がベースになってネガティブ寄りになるか攻撃的になるか。

 

上司との面談で言えば良かったかもな。粗トークは耳に毒なので、人の良いところを語る雑談をして欲しいって。天動説的なエゴの人にはかなりハードル高いと思う。悪い部分は意識しなくても目に入るが、他人の良い部分は見ようとしないと見えない。他人の優れた部分を見ることはエゴからすれば毒物になりうる。

 

ちなみに、割と良いも悪くもなく世界を観ている自分としてはあんまり関係なく見える。たまたま帰りが一緒になった真面目さが良き先輩になんとなく雑談を振ってみた自分が居た。「あの人が細かく発言するのはざっくり言って痛い目をみたからかもしれない」みたいに、他人のことを真面目に考察している。良き。たぶん、否定から入る女性上司とは肌が合わないのだろうな。

 

古参の先輩と同じ匂いがある。本日雑談を振ってきてなんだろうと思ったら、「四国って村上という苗字多いのか」という、僕にも当人にも無関係の話で、やっぱりこの人楽しいなと想う。

 

地動説で生きている人は良き。

(ちなみにこの先輩方2人とも打っていない)

 

現実離れしても現実の人間離れはしてないことを書いてみた。

 

やれやれ。

 

人間の自己の不統合の話。

言葉による疎通って情報量が不足していると思われがちなのは分かる。人の情報としては、実際に会って話すのが一番疎通できて、スカイプ、通話、手紙、の順に疎通がしにくくなるとされる。たしかに理解はできる。ただ、問題は、そもそも何をもって疎通したと承認されるのかという哲学。

 

これはおそらく分かり易さに尽きる。伝えた、伝わったのがまさに目に見えるし。ここで、何が伝わったら伝わったと言えるのかというと、自他の現実的な挙動が変わったとかそんなことになるはず。要は指示的疎通。制御するされることが疎通と呼ばれるものであれば、まず自分が自分をもって制御されていないということが問題になりそうだが、これを他者に転嫁するのだから、そりゃあ言葉では伝わらんわなということになる。

 

情動の共有と考えても、情動の波は確かに物体としての人の機嫌の波を感知することによるから、言葉では足りない。痛いと訴えるとき痛いという言葉を伝えた訳ではないのに、言葉に載るものだと思い込む。

 

もっとそもそも。

「脳の中の幽霊」では、物体として欠けた自分の腕が動いたり痛んだりする症例がいっぱいでてくる。この脳が形成している肉体と実際の物体的な肉体が乖離している上に、意識に上ってくる肉体観は全盛期をベースにしていたり、意識してやっと今の体が認識されたりする、とぎれとぎれの感覚でしかない。

 

体ベースで自分を考えたとき、人は秒単位で自分の肉体観が更新されている訳ではなく、不具合が見つからなければ過去の肉体から更新されない。

 

で、この肉体の不統合を前提とした上で、精神は当然に肉体に連動しているとすると、言葉で疎通したいと思った心はとっくに過去のものであったり、心は動くからそのいまにそぐう言葉を発せられなかったりする。

 

これをツールとしての不具合とするのは、クレーマーでしかないのではというのが一連の思索。まずツールを扱うソフトウェアを一定にしないと無理だろうって。同じ言葉を多義的に扱っていない人だけが文句を言って良いと思うが、それは人間である限り無理。

 

まぁ、この不可能が人の良いところであり、言葉の良いところ。

 

そういえば、分かり易いところに寄りたくなるのが人間の習性。統計学の本で一般論として因果関係を語りたい人が多いとか。「成功した人は皆努力している」とか「優秀な人はやる気という言葉を使わない」とか。数学的に捉えれば全然真理ではないのだが、人は自分の中で分かり易い説明を求めてしまう。

 

「犯罪者には全てきちんとした動機がある」とかもそうか。

 

この分かり易さは、脳のリソースを省エネするという意味では効率的な配分と言えなくもないが、世界が鈍る。曇った自分で良いなら、うん、良いでしょうと思う。分かり易い観念にすがらないように生きるのはぬるぬるして自分が掴めなくなって不安定でしょうがないし。

 

ただ、あくまで僕でいうと、分かり易い観念にすがらなくても良いという自分はとても気楽。なんでそんな前提を当たり前にできるのだってむずむずしていたし、単語を知っているだけで知識として扱うのはなんなのだというのがあった。知らないことを知る必要がない無用のものだってスルーしなくて良い自分になったのがとても良き。

 

これだと、自分が知っていること誰かが知らないなんて天秤にならない。知っていることは価値を高めることも低めることもない。そんなことより誰かがちゃんと自分で在るのかが気になる。

 

という感じで、言葉は人間の疎通ツールとしてかなり高次なものと捉えている。伝わるのは目的ではなくもっと根っこに近いところ。全自分みたいなものなのかも。

 

SF的に、もっと分かり易く脳波で意図が伝わるようになるみたいなテレパシーで考えても、まず発信側がきちんと自分の脳波を制御してないとノイズだらけになるのではという推測。だから人が考えている中身が読み取れるようになってもあんまり意味がないよなとなる。

 

一昔前であれば知りたかったが、疎通で言えば現実化されない内心なぞ知っても意味がない。

 

この中身こそ発話でない言葉なのでは。

 

 

はい、おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。