エゴでない自分

 

 

 

雨に打たれて元気がなさそうなイチョウ。うってかわって艶っぽくなるカエデ。

濡れる足もとより気になる雨の作用。

 

課題を頭の隅に置いて持って帰ってみると、黄色と紅の光に対する映え方というか目がどう捉えるかみたいなところなのかなと想う。反射で映えるイチョウと、吸収で色味を増すカエデ。

 

一日中雨だったが、帰る頃には止んでいた。たまたま帰りのエレベーターが一緒になった先生が、駅ビルから駅に行く通路にある5段ほどの階段を1段飛ばしの小走りで抜けていく後ろ姿を眺めて、こういうの良きだなと想う。たぶん職場の上司でなくても。誰の目に留まるでもないその人の素、みたいな。

 

今週のお弁当は休憩室で食べており、他にも2人ほど居るがお構いなしにミクシー映えで撮っている。有言実行は自分の中でスッキリできて良き。

 

昨日書いていた細胞の防衛機能と成長・増殖なのだが、なんとなく後者の感じが観測上強くなっているのはそういうことのなのかと我ながら。髪の毛伸びるのも早いし、細胞が元気な気がする。実家に帰ると箱に閉じ込められている気分になるのも防衛機能全開だったのでは。この細胞の本では細胞の反応は外界(環境)によって決定されるが、この外界は脳からの信号の方が優位で、これを信念と名付けていた。

 

信念で体調はどれくらい調整できるのだろう、というのは現代医学のバイアスによる阻害があるが現代医学からも偽薬効果は揺るぎない。ちょっと自分で試してみようかな。いや、もう充分試している。もっと。

 

昨日の家族観の話を書いていて、朝起きて、では、自分はどういうモノサシなのだという混乱が起こった。個々の価値観問題に対する回答を持ち合わせていない自分はきちんと「自己」であるのかという命題。

 

考えるって基本的にこの意味の「自己」から繋げていくもので、自分はどうなのかという結論に至る過程だと思われる。自分はこれを信じたい、ではこれに確証が持てる根拠はあるのか、あぁこういうデータがあった、大丈夫だった、みたいな。

 

こういう守らなきゃいけない「自己」が設定されてないらしく、ずっと混乱してきた。決められないことに対する優柔不断という評価とか。

 

これで覚えているのは、母親と姉が口喧嘩をしているのを聞いていたら、あんたはどっちが正しいと思う?って巻き込まれたとき。これは何回も書いているはず。ただ、見え方がちょっと変わってきた。

 

僕はずっと誰かの世界観を流用しているなぁという自覚があった。だから、昨日書いていたそれぞれの家族観に対して何か否定する訳でもない。そもそも正しいと固定したところで価値観は流れていくものだし。服の流行もループする。

 

ヘーゲルさんの本、何周してもさっぱり読めないのだが、なんとなく今流用している世界観はこの人のものかもしれないと想った。ざっくり言うと、「真理は自己の意識」とのことで、存在は意識そのものだし、世界もこの意識の投影なのだから、世界自体が自己であるという価値観。

 

見えるものは見ているのだし、みたいな話はちょっと前に書いたが、もう少し統合すると、自分が自分であることの自己ないしエゴは、世界にとり不純物なのではないかという話。

 

口喧嘩の話でいうと、どちらの見解にも特に理はないし、僕に味方されて優位に立てると思う意図が僕の世界にとってどうでも良い。母親とのこの前のやり取りでも、近しい人が自分と同じように外に従うのが安心だという意図もどうでも良い。

 

そんな使われ方はされたくないため、何も考えてない、決められない人だとされる(する)方がマシだった。

 

現実的選択で言うなら、ほとんど何を選択したところで他の選択肢のが良かったのではという後悔はない。選択の前になんらかの思想背景とか経験則とかがあってそれに基づいて判断したところで、何かを選択する前に完全な情報を得ることはできない。十全だというのはエゴの思い込み。

 

もちろん、僕は他の人の世界をその人として見ることはできない。だから、否定できる訳がない。あくまで僕の世界において、選択はたまたまの決定であり、その決定を赦しているだけ。自分で自分に対してストレスかけないから、ほんと、気楽過ぎることになってきている。

 

この世界観だと、イライラとか凹みとかはあくまで自分の問題でしかない。世界の外のせいにはならない。他責にしない分、自責にしてきたがここも解放されてきている。人に迷惑をかけているのというモノサシは僕のエゴの設定によるもので、その辺りの塩梅は心得ているはず。

 

ところで、ちょっと法律談義。

 

不法行為に基づく損害賠償責任という制度がある。ニュースにはあんまり出てこないかもしれない。ニュースは犯罪とか憲法違反が好物だし。

 

この不法行為制度って、昨日の国家の承認に繋げると、社会における迷惑の限度を越えたものはどういう行為なのかを設定している。迷惑が金銭に換算されるというのも定量化されてなんともと思うが。

 

過失という言葉はニュースでも出てくると思う。うっかり見落としたみたいなのが日常用語的語用だが、これをしたら迷惑な結果が起こると予見できるだろうということと、それをしなければ迷惑な結果が起こらなかったのにそれをしたというあるべきものさしで判断されている。

 

口喧嘩も何を基準とするのかで合わせてくれたら裁判できるだろうが、自分の基準(エゴ)こそが正しいという言い合いは不毛でしかない。だから、歴史の経験則から外の基準を用いて判断できる機関を創設した。

 

自分に自信がない人でも自分の悲観的セルフものさしにはとても自信を持っている。

僕もそれをやっていた。でもそれじゃあ詰まらないよな。

 

法律学も自分ごととするとするする入ってくるのだが、このすんなりはエゴ基準ではない。

 

エゴではない自分の見つけ方は、自分が自分であるというバイアスから離れて、何が見えるかを眺めてみること。僕は設計バグなのか、もともとエゴっぽい守るべき自分が無かったらしいからここは楽だった。いや、エゴがあるのが当たり前の世界観の人の中で生きていると自分自体が「無」なんではないかとずっと疑うことになって、それなりしんどかった気がするが、もはやどうでも良い。

 

自分で自分を承認することは、世界に何が見えるか自体を認めることであり、他責にしないこと。

 

この指標というか、思考の細分化がめんどい人物だと読まれそうだが、僕の現実世界はこの細分化があることでスッキリしているし、世界が個別であることが分かった後は他人の世界観も別に否定しない。否定するを裏返すと自己肯定にある訳で、肯定するべき対象がなければ否定は起らない。

 

このモノサシだと、人に対して交換可能性はない。人は個人だし、捉えている人も個人だから、誰かと比べて時間をかけるとか、想いを傾けるとかおかしなこと。

 

このモノサシで考えられるとしたら、自分自体を交換可能性がある人と捉えていることになる。この世界観はスリリングで良いと思うけど、安定も安心もきっとなかろうな。

 

ぼやかさずに書くと、読者がどんどん減っていくと思う。

けど、そこを緩めても何も得られない。

 

おやすみなさい。

 

生の自分でありますように。