何処に居なくても良い

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海と波を見に行ってきた。静かなのも、音楽が流れているのも、良い。のどかな日差しと波音と調べと拍手。自然な休日。

 

楽しみでなかなか寝付けず。いや、単に遅番から早番への移行で早めに寝るのに慣れていなかっただけかもしれん。まだ暗い朝方に目が覚めて自販機にココアとヨービックを買いに行った。昨シーズンまでココアを飲む習慣はなかったのに、時々飲みたくなる。

 

ご飯を食べ、しばらく活動してから出発。三ノ宮からバスが出ているということで、まぁなんとかなるか。新大阪で旅用兼お風呂の最後の読書用の本を補充。「線は、僕を描く」という水墨画の本。

 

あぁ、森さんの本は終わったのだが、最終章の始まりの何処かからの引用文の最後に「人間が他の人間から得る満足と苦痛に限界はないからだ」という文があって、凄いところ付いてくるなと思ったのだった。たぶん何かの哲学書で社会関係を書いている。人間が他の人間に存在を依存する限り、絶望だみたいなフレーズも出てくる。おそらくこの「他の人間」というのは社会規範みたいなものだと推測。距離感大事。

 

先に本の話を書くか。最近のトレンドも読んでおこうかと無造作に手に取ったのだが、思いの外通じてしまうものがあった。何の変哲もなさそうな法学部の大学生がふと水墨画の大家に見出されて、才能を発揮するという流れ。

 

その前にちょっと法律談義。大学1年目で習う民法総則の授業がちらっと出てくる。個人的にはもっとまじめにやって欲しかった。というのも、条文の説明しかしてくれないのだもの。もっと上の大学なら違うのかもしれないが。ちょっと語る。

 

民法は確かに日常生活の法律関係を規定しているが、日常に関係するのは民法より行政法の方が具体的かもしれない。電車の運賃がどう決められるかとか住民票とか。そうじゃなくて、民法はもっともっと抽象化した対等な「人対人」関係と「人対物」の関係をモデルにしている。

 

で、民法総則はさらに抽象的な、そもそも民法上の人とは、法人とは、物とは、法律行為とは、法律関係を拡張、ないし補充する代理とは、民法上の時間の流れと時効と。条文の順序としては初めなのだが、ここから初めても全然分からない。人が民法上の権利主体になれるのはいつからかという出生についての説から始まるのだが、そもそも権利とはって言われても、日常用語の権利(人権)は全然違うのだからなんとも言えない。ざっくり言えば債権と物権なのだが、それはもっともっと後に出てくる。総則の前に何を対象としたどんなモデルで設計されているのかを教えるべきだと思われる。

 

債権の設定や物権の移転(これも債権)のために「意思表示」というそうしたいという現実化をきっかけにして、意思表示を中核とする権利の変動要因の総体を法律行為という。なんのこっちゃ。数学で言ったらいきなり三角関数とかベクトルから始まるみたいな感じ。覚えたって操作できない。

 

法律語りだすとキリがない。

 

やれやれ。話がそれた。

 

主人公は両親を亡くしていて無気力状態になる。これを「真っ白い部屋」だと表現している。ガラス張りで、向こう側の人の言葉は何一つ聞こえてこない精神空間。主人公のように拒食になるほど酷くないが、この感覚、分かってしまう。もともとそういう傾向であったことは否めないが、父親が亡くなったセンター試験間近の1月くらいから、大学に入るくらいまでぽっかり空いている。いや、やり取りは断片的に想い出せるからあくまで中身の話。なんなら最近まで引きずっていたかもなぁって。長く過ごした恋人さんも、貴方は時々何処かに行っているみたいなことを言っていて、ぼーっとしている訳でもなく、その時に何を考えていたかも分からない。単に時間が抜けている。(もちろん素面)

 

こういう時にお酒でごまかすことを覚えて、自分の言葉なのかどうなのか分からない言葉を撒き散らかしていたのだよな。ごく最近まで。という知見。

 

大学の一人暮らしの部屋に誰かが来た時もお前の部屋生活感がないなと言われていた。たしかにとんとなんも何もかった。自炊も特にしていなかったし、ゲーム機があったくらいか。

 

もしかして、僕はまだ部屋の外に出てないのか?

いや、自分の言葉を覚えて徐々には出ているか。

 

こんなことを考えてつつ、JRに乗っていた。車窓と本を交互に眺めながら、となり座った女性が目に入ったとき、日本において「まなざし」ってなんとなく不浄なものとされているよなと思った。いや、別にこの女性から不審な感じで見られた訳ではない。電車から出るとき振り返ったら一瞬目が合ったから、こいつ窓の外ばっかり面白そうに見てなんなのだとは思われていたのかも。車窓から見る風景大好物。

 

まなざしにはエネルギーがある。見られることが見とがめられるとか、女性だったら性的な目で見られる不愉快とかがあるだろうし、他人にまなざしを向けることはなんとなくやましいという観念がある。だから現実では見られない分、インターネット世界で不浄なまなざしを解放しているのかもしれない。その視線は自分に返ってくるのに、返ってこないとたかをくくって。

 

僕は現実世界でもまなざしを向けたい人だから、生身がなければ良いのにと思うときがある。この生身の属性によってまなざしの性質が決まってしまう訳で、良いオトナが喜々として風景だけを目的としてまなざすとか普通は無いだろうとか。それを目的とした場なら許される。自然公園とか。なんだか不自由とか不自然よな。まなざしが生身の目的と直結しているという観念。職場の女性に今日の爪は色違いますねって言ったらセクハラになりかねない。

 

という感じで、高速バスを1駅で降りるという初体験。三ノ宮から淡路ICまで30分という一瞬。観覧車はやっぱりあった。橋を渡るときに岩のカタチ的にあの辺だなと当たりを付けたところから離れた海岸に行こうと思ったら、歩行距離がやたら増えた上に全然海岸に突き当たらない。コンビニが見つかり、お手洗いとビール。2本買って1本飲んでから諦めて目的地に向かう。

 

目的地というのは、宵顔さんがお仕事をしている地域の音楽フェス。行ってみたら写真1のように反対側には全然人が居なかった。思いの外海岸が広くて良かった。ゆっくり歩いてBGMが流れているような音量が聞こえるところで座って2本目のビールを飲みながら、本の続きを読む。水墨画のお勉強が始まって、水墨画とは、何かと繋がっているという「自然の所作」という丁度良いフレーズ。音楽とか自然に接することとも通じている。人は自分が孤立してしまったことが寂しくて、何かに依存したくなる。この「何か」はかつて神様で、今は「場という物理(電子)空間」なのかも。

 

昨日書いた儀式とも近くなってくる。

 

しばらく遠目で宵顔さんを眺めただけで帰った。別に知り合いではないから、これで良い。

一目でこの人と分かるほどの画像情報は流れていないし、なんで分かるのだろうな。不可思議。

 

僕が想う繋がりはなんなのだろう。場とも自分との一致とも違うみたい。

例えば、この日記を読んでくれている、見えている人、見えないようにしている人はそれぞれ知り合いではないが、何かの縁起はある。

 

そもそも知り合いってなんなのだろうと思うと、僕は物理空間で長く接した人のことも全く知らない。この人達が僕のことを知っているのかというと、知っていない。知ったと思い込めるのは、現実的挙動が一定である、もしくは予想できる範疇であるということなのだろうが、当人が本当にそれをしたいのか分からない。こんなの自分を振りかえってみれば当たり前。

 

僕は、僕のことを知り合いにしない人が好きなのかもしれない。

僕も知らないという意味での繋がり。

 

安定感も安心感も抱くべきではないけど、結局世界ってこんなものでは。

安らかにはなりえない。

 

最終的に僕が真っ白い部屋に閉じこもったままなのか、開いたのかは良くわからないな。

ここも決めない方が良かろう。

 

自分の波を面白く観測している次第。

 

はい、おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。