無関心

 

 

しばらく公開型にも貼り付けようかな。ただの気まぐれ。

文章自体はなにかない限り毎日書いているし書くし。こちらは気まぐれが作用しない領域。

 

哲学は言葉によって見えないものを見えさせるというメルロポンティさんの言。内側にあるものを言語化するのではなく、言語によって可視化させるというのは、あんまり連動が無くて良いな。責も繋がり。

 

 

さておき。

 

なんとなく抜け作な1日。筆頭は夜ご飯の調理時間で、副菜を作り忘れた。メインをサバ缶カレーちっくにしようと画策して、大根と、人参・ジャガイモの下茹でを分けたり、味付けどうしようかと目論んだりによって、レンチン目玉焼きときゅうりの浅漬けが抜けた。お風呂出てから挽回したが、なんとも要領が悪い。

 

でも、別にこれに対して何も無い。まぁ良いかとか、自分はこういう人物だという感想すらない。ただ眺めているだけ。なにせ、個々では自分の事を決める必要がない。人格(意識)を決めるというのは、結局のところ未来と過去の時間性に係る。過去はアイデンティティに向くし、未來は予測が収束する方向性。

 

存在と時間」で時間がないと現存性が認識されないという言がある。これは確かに真理だと思う。ただ、人間存在における「時間」は認識されたというより発明された概念なのだろうなという感じがある。言葉によって可視化された言葉としての概念。時の間って基本的に認識されないし、し続けることができないからこその間である。

 

民法の時効制度でも、時効期間のうち始点と終点が証明されればその間は期間が経過していると推定されるという制度がある。法律の推定は、推測みたいなそうであるという公算が高くなるというのではなくて、証明責任の配分という技術的な公平。云十年の期間をずっと証明するより、その間に期間を阻害する事実があったことを証明させる方がバランスが取れるという意味(と解釈している)。

 

証明のバランスとから考えると、強制性交罪の要件に「暴行又は強迫」が入っている意味も分かってくる。あんまり書くとどこかの集団から怒られそうだが、夏目さんの「それから」の時代の代助と三千代の2人きりの緊迫感は、人間が経験的に習得してきた自制ないし自衛みたいな部分なのだろうなと。要は、そういったことが起こる空間に入っている時点で、もはやそういったことが起こり得るという前提だから、空間に無理やり連れ込まれたか、空間内でも無理矢理そういうことを起こしたという証拠が要るということ。性的同意はもちろん大事。ただ、あくまで倫理的なルールであって、法律の要件にするには曖昧過ぎるような。言語上の同意なんて録音したとしてもそんなに証明力はなさそう。ほんとは嫌だったっていう内心まで発話では表現されない。だから、暴行脅迫みたいな無理矢理がないと犯罪的なまぐわいが起こらないという土壌はむしろ両性の平等(対等)を理念としているのでは。

 

あくまで理念(観念)であるのが法律の条文から抽出されるルールのミソ。

法は全てを救えるヒーローではない。行動規範としてはころころ変わる日常の常識とかマナーよりは普遍性がある。

 

知識として読み取るものではないとすると違う味わいがあって面白い。

おべんきょう的に読んでいるころは、完全にタスクだった。僕はそもそもタスク的に本が読めない。感想文めいたことを書いたしても読んだ証明文としてでもないし、また読んだら味は変わるもの。

 

 

たぶんの話。

 

自分が知識を持っていると想える人って、その見識がお金(通貨)みたいに通用性を持ち得ているとしている。たしかに時間を限定していった瞬間で見れば通用はする。ただ、この知見が3年後にも通用するのかというと分からないし、この期間が長くなって耐用年数が強固な知識だとしても、いつまで通用するのだろう。

 

動きに伴う知識であれば道具として活用するものだし、生活必需品だから別の文脈で大事。この通用性も限定された場(空間)ちっくだが。

 

どれにせよ、いつまでも誰にでもどこでも通用するようなものでないから、僕は自己解釈として無知の人となる。無知の知って、「知らないことを分かっている」みたいな風潮だが、ほんとは知識という物的なものに頓着せずに稼働できることなのではという感じ。提唱者のソクラテスさんもやたらと徘徊していたイメージ。笑

 

知らないと認識したとしても、知ろうと動かなければ、おそらく知っていることだけで世界が運用される。もちろんそういう人生劇場を選ぶのも自由だし、全く問題ない。僕も知ろうとして読んでいる訳でもない。ただのお散歩的読書。

 

そういえば、灼熱の公園でお弁当を食べたあとにリブロに非難したとき、脳科学者が書いた教養本で意識をテーマとしているのを見かけた。これは機会、即買いかと思ってぱらぱらめくったのだが、それほどでもなく立ち読みで終えた。

 

意識を脳科学的に捉えると、結局のところ物体的な脳の作用としての意識になる。「意識がないと認識もない」というは、脳科学的にも一般的にも真理とは思う。ただ、僕は脳の作用がどうなっているかは意識し得ないし、僕が何かを意識しているときに脳が物理的にどうなっているかなんて知ったことではないし、分かったところで何の道具にもできない。

 

おそらく、脳が処理している膨大な情報の媒介物、もしくはフィルターとして意識が在るみたいな捉え方みたいだが、僕が昨日書いていたのは、意識が認知する外界ではなくて、認知し得ない感じの世界。オカルトとも微妙に違う場。

 

直感と呼ばれる領域っぽいのか。

脳科学的にこういうレーダーが活発になるのは幸福ホルモンがどばどば出ているとかアドレナリンだとかホルモン的な説明はきっとできる。ただ、これって現象そのものの説明にはなっていない。

 

いや、僕は日常的にセロトニンどばどばしているはずだが。笑

 

現象を説明する理屈は納得の世界であって認知ではない。
僕は現象が説明される理屈を分かりたい訳ではないし。考察する為の知見ならあればあるだけよろしいけども。

 

そもそも僕は世界について納得していないから生きていけている。

腑に落ちないって語用としては座りが悪くて気持ち悪いというニュアンスだが、僕は納得という収まりの方に座りが悪さを感じる。説明が付けば良いというのは外界を注視しなくても良くなる省エネ世界観。

 

 

「それから」になんか変な感じがする理由が分かった。

 

その前に、普遍的に残っている宗教的以外の本って、登場人物と作者以外の視点が書かれているというのが共通項なのかな。メタ的な読者視点でもないし、変なまなざしがあるような。村上さんもそんな感じ。

「それから」は、まともな人が、自分の行動の理由とか人の行動を窘める根拠に自分の理屈を持って来ないところが変。そうしてこの変さは今でも変わらない。

 

代助はこの時代に30歳未婚で、親類一同から結婚しろと迫られている。なんで結婚しないといけないんですかという代助の言にきちんと応えられる人が1人も居ない。これって今の人でも同じだと思う。だって、別に自然ではない理念の話だから。

 

僕だったら、社会からの目が面倒になってくるだろうから、てきとーな相手を見繕って普通の人として承認された方に面倒がないというアドバイスをするところ。それを地でやって正義みたいなことを宣うのはとんとオカシイ。そもそも外に承認されるような関係であらねばならないという法的拘束もないし、処罰される時代でもないし。

 

僕はこういう意味で全く結婚願望はない。

反発ではなく、ただ必要性を感じないだけ。

 

それでもありうるとしたら、そこに羨望を抱いていない人。

ちょっとありえそうな世界線ではある。

 

 

今まで気にしなくて良いことを気にし過ぎていた感。

「それから」で嫂が、代助は生活費をお父さんに出して貰っているのだから意向に従うべきみたいな規範を持ち出してきていて、げんなり。うちの母親もそんな感じだが、あんまり強く言って離れた姉と妹の教訓があるのかもしれず、やや緩い。

 

人が物となっているのも、別に自然でもない。

資本主義の観念っぽい。

 

僕は、こういう文脈で報恩みたいな観念が全くない。感謝の感じがないということでもない。夕焼けとか花火の現象を美しいと捉える世界に対する感謝はある。ただ、感謝を交換して暖を取るという感覚が胡散臭いだけ。感謝しているのであれば対価としての交換の観念は起こらんし、そこで自分が何か費やしたとしても返ってくるという依存が起こるはずもない。

 

連動しない一方通行の一致が人間関係における感謝ではという感じ。

 

 

気にしなくても良いといえば、他人に僕がどう捉えているかというのもどうでも良かった。

もっと遊ぼう。

 

では、おやすみなさい。

 

良い夢を。