不可視の可視化

 

 

 

人生毎日がイベント事(無常)。

 

学校の時間割が出てくる夢。今更ながらとても苦手だったのだろうなと思う。不登校とかはない。なにせ田舎過ぎてそういう世界が無い。あと歯医者も良くシーン。むしろ昨日の1日の方が夢っぽい。海岸から見えた白い月が最寄り駅に着いた頃には黄色になっている美とか。逆転現象。

 

あくまで体感。仕事の時間の流れと休日の時間の流れが均一になってきている。時間に分け目がない。悠然と過ごしているように見えて、頭の中のでは諸々模索している。

 

 

お弁当時間。女性上司にそろそろ外で食べるのを辞めたらと言われる。たしかに朝は寒くてダウンを解禁した。この体感気温のままダウンを羽織って外に出たら暖か過ぎる。日向ではお弁当が食べられないくらい。日の丸ごはんを取ろうとした時、プラスチック製の弁当用の箸が折れた。2つ目。そろそろ折れるかなという感触はあったため特に落胆もなく、淡々と半分以下になった箸で食べて、100均に補充に行った。遊び心で今までの自分では選ばないものにしようと、星型の柄が入った木製の短いものにする。使っているケースにぴったりおさまるサイズ。帰宅して洗おうと袋を見ると、「子供用」と書かれている。子供用とて用途はそれぞれ。

 

そろそろお弁当箱も買い替え時かも。少し欠けてきた。買ってから2年ほどで、平日毎日使っているとすればもう使用価値は十分減価償却されているような。何回か休日出勤もあったな。竹野にピクニックに行って唐揚げと卵焼きを収納したときとか。どれくらい使える物なのかしらないにしろ、買い替えるときはお疲れ様でしたと念じよう。あ、今日のお箸も。なむなむ、ご苦労様でした。

 

 

さておき。

 

日中は「知り合い」について考えていた。概念とか語用とか。こういう一般的に扱える言葉に紐づく観念を整地することは日常においてほとんど役に立たなない。別に相手に対して「知り合い」という言葉は使用すべきでないとはならない(ちょっと聞いてくれる人にであれば、提案はするかもしれない)し、違和感がある言葉を扱う人に対しても特になにもないし。

 

知り合いとは、他人を表す類型の1つで、全くの知らない他人ではない、かつそれほど親しい訳でもないとしてみた。そもそもこの定義なんにも明らかにされていないから、要は、完全な他人よりは「何かを知っている」というくらいの意味でしかない。では、何を知っているのか、あるいは何を知られているのか、というと明らかで、「現実の場における接触」ということになる。接触の頻度ではなく程度によって1回でも親しくなる人は在るかもしれない。

 

ここで、想う。そもそも「知る」ってなんだろうなと。おそらく握持(あくじ)という手につかめる現実的なものという観念から延びてきているものであって、「知っている」は「持っている」にとても近そう。知り合いというのは、お互いが現実的なものを最低限持ち合っているという関係なのではという結論になる(思索の時にはここまで言語化されていない、念のため)。

 

僕はもう人をそういうに見ていない。情報が増えたから知った(持った)ことにはならないし、そんなことよりまなざしを向け合うとか、分かり合いたいという関係の方が本質なのではという次第。

 

ずっと前、「解る」と「分かる」の違いを考えていたことがある。解るは対象の細部をほぐすことで、分かるは対象を他の物と別のものとする。これも実際の語用ではなく僕の中の世界における整地。

 

ここから、今日は「知る」と「わかる(分かるでも解るでもいい)」の違い。感覚的には知るには重みがあるが、分かるにはそれがない。掴み取るのが結果である知るという観念は、知ってしまえば終わるが、分かるにはキリがない。混沌から対象を救い上げることで認識できるようになることで、その対象はいくらでも細分化して救い上げることができる。少なくとも掴めるものではない。

 

たぶん、「無知の知」ってこういうことなのだろうな。

 

なので、口説き文句としては貴方のことが知りたい、ではなく、貴方のことをもっと見たい、あるいは、わかりたい、の方が適切。笑

 

そういえば、まなざしについても考えていたのだった。

宵顔さんに完全にセクハラ的なまなざし的言説を送り付けた(別に後悔はない、これで終わって良いし、終わるくらいならとっくに終わっている)。

 

自分の優位性というか特別性って、まなざすものとまなざされるものが共存できるのが自分だけであることよなと。他人との関係では、まなざすか、まなざされるかどちらしかない。視点に言い換えた方が分かりやすいのか。他人を見ることと他人から見られるは分離しているが、自分からすれば他人を見ることと自分が他人を見ていることが見えるという、視点を俯瞰できる。いや、余計ややこしい。

 

何を見ているかが自覚できること、で良いのか。

ただ、この何が見えるのかを自分に含めたとき、この自覚が何処から来ているのかと考え出すとなかなかややこしい。

 

視線ははたして人に含まれるのか、という疑念。

別に深淵な哲学的命題ではなく、もっと素朴な話。例えば、なんで自分はそれを見るのか、あるいは誰かから何故貴方は私を見るのかと聞かれたとき、何か理由を言語化することができる。好きだからとか、たまたま目に入って注目してしまったからとか。ただ、見えるものは目に入る前に視界に入っていないといけない。だとすると、この視界をデザインしている存在は自分が知っている自分より前に居ないといけない。全部が全部見ようとして視界ができ上がっているのであればおそらく意識はすぐパンクする。

 

要すると、視界から見える世界も一意の客観的な像ではなく、脳がスクリーニングして意識に引っかかるか引っかからないかの絶妙な映像化が施されている加工品ということ。

 

ここまで言語化されると思っていなかった。当初は素朴な疑問として、昨日の海岸に行ったとき、参加するアーティストの音楽をyoutubeで予習して(真面目)、もっとも好みなアーティストさんが演奏しているタイミングで行ったのは、行く前に眺めたタイムテーブル(記憶には残っていない)を見た無意識が調整かけているのではということが浮かんだため。

 

たぶん体の内部の時間って意識がいらんことしない限りかなり時計時間と同期しているだろうし、それでうまいこといくようにしているのではというところから、これは別に時間に対してだけ行われる調整ではないだろうなって。いわゆるシンクロニシティもそういうことだとすると、かなりしっくりくる。

 

肉体を形成している細胞は自分が把握しているよりもはるかに人類史を通り過ぎてきた含蓄があるし、外界に対するレーダーも意識よりも高性能に違いなくないか。

 

意識が上澄みに過ぎないというのがいよいよ顕在化されてきた。心が赴くというは無意識が調整かけていることだろうし、何か良い感じはそれに適っているということ。自分とは自分であって自分でない。

 

ということは、他人だってそう。

誰かが自分はこうであるって自己紹介しても、それはその人の本質までは届かない。お互いたぶん一生。

 

だからこそ。

 

媒体の現象学で、哲学的な言葉は、見えるか見えないか微妙なところを言葉によって見えるようにするというフレーズがあって、たしかに僕は言葉を哲学的に扱っている節があると想った。バズるようなフレーズではなく、あくまで自分に見えるように。ということは、誰かにとっても何か見えるようになるかもしれないという可能性。

 

「線は、僕を描く」はとても好きな文体。筆で線を引くだけで見る人が見ればその人の存在がどうであるか分かるというのは、僕の利き文体観にも通じる。

 

先輩上司と女子トークをしている相方さん、世界にぶんぶん投げつけるように言葉を扱う。スカっとエピソードをやたらと自慢するのだが、言葉が痛がっているような。そのうち逆襲がありそう。あと、立場によって言葉の扱い方を変える。僕は先輩男子より年上だが先輩男子には敬語なのに僕にはやや粗い。

 

人としてどうかはどう現象化されているかより、言葉の扱い方で読んだ方が適切なのかもしれない。言葉って一回扱えるようになったらもう知っていることだから、自分の中で吟味されることがなく、あくまで当人の現象化の一部でしかない。言い回しはほとんど無意識が自律的に行う。

 

実は、言葉は扱っているようで扱われるような手に余る存在であって、意識上の言葉は当人の世界の素材なんだよな。たかがと無造作に扱っているようで、それが世界観そのものになっている。だから卑下する言葉とか、疲れたとか言わない方が良い。言わないというか、扱わない方がというところで、なかなか伝えるのは難しい。

 

自分の辞書にある言葉を吟味するなんて、よほどの暇人しかしないし。言葉はもともと在るものであるということ前提になっているのは分かるし、その方が省エネではある。

 

その省エネこそがしんどい原因なのではと思わなくもないが、他の言葉があるということは当人の中で実感をされないと無理だし、この実感はどれだけ世界と触れ合っても無理で、スルーした嫌な自分と向き合うしかない。

 

何を選ぶにしろ一長一短。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。