あいまいのせいかい

 

 

父親の事情で引っ越しをするという架空の夢を見た。引っ越し先はショーウインドーみたいな部屋で窓の形が、なんて表現すれば良いのか、4角形みたいな、いや、壁も含めれば5角形で、カーテンが4枚いるわ、1枚しかないから外から丸見えではないかと思っていた。立地も悪く、最寄駅はスーパーの地下にあるらしい。

 

曝け出し過ぎという精神性の顕れか?

こんな情報量では解釈しようがないが。

 

無性にひじきが食べたくなった。ひじきの味というより甘濃い煮物なのかと思ったが、人参と油揚げで作ったら思いの外薄味でひじきの味がちゃんと分かり、この味を求めていたのかもと思った。市販品では味わえない薄さ。

 

さておき。

 

本日の新規の花の名前はペチュニア。いや昨日だったかもしれない。新しく買った本は直感で選んだが思っていたのと違った。挿絵がちょくちょく入っている。物語には挿絵が要らないと思っているのだが、思っていたのと違うというも面白いことだ。

 

先生との仕事はなかなか楽しかった。人と話すのが嫌いだとの印象はちょっと違うのかもしれない。時間つぶしと、どこまで話せるかを選んで話している感。情報が伝わらないとき、非はほぼ発信側にあるのだという言は、どれだけの人が納得できるだろう。

 

やはりこの人好きだなと思うのが、思考回路が僕の上位互換みたいなところ。Twitterは見ているらしいが、ここまでは読まないだろうと思うから書こう。まぁ読まれたところでおそらく読んだということは言ってこない(予防線)。

 

某セルフの飲食店で昼を食べたあと、マスクを付けるのを忘れて食器を返しに行ったら誰にも咎められなかったが、無性に罪悪感があったとのこと。この派生で、そのうち人はマスクを外すと服を脱ぐくらいの水準で恥ずかしくなるのではないかと1人で思い付いて面白くなったとか。とてもありうる話。罪悪感と恥ってまぁまぁ近いところにあるし、とまでは発話していない。

 

僕は基本聞き役である。

 

あと、日本語の曖昧性についても言っていて個人的に楽しい。どうやらドイツ語はロジカルで、ここがどこに係っていてというのがはっきりしているらしい。法学者になりたかった人だからドイツ語の論文を読んでいたとか。曖昧だから良いのだ、ということも言っていて、バランスが取れている。

 

もっともっとあるのだが、ここは僕の日記だからここまでで収める。ただ、ぼそっと研究者になれていたら「こんなところ」には居ないかもしれないが、その道に行ったら世をはかなんで退場していたかもしれない、普通の人になれて良かったのかも、みたいな発言はなかなか含蓄がある。賢い人ってきっと世界の不完全性がもっと細かく可視化されているのだろうな。僕は賢くないからそこまでではないが。この世界の不完全性は森さんも書いていて、森さんも学者だった人。

 

ここで、どうでも良い思い付き。誰かを想うことって、主観的にどうかとかいうよりその人がどうかということが可視化(言語化)できることでは。ここには性別も民族も関係ない。先生については今日の1対1で色々可視化されて、1つ日記書けるくらいはある。でもあえて言語化していないという節もあるのか。その場合も、いざ言語化するとなったらいっぱいあるのか、どうなのか。

 

まぁ、言語が可視化の唯一の術ではないし、態度とか気配とかもある。

 

はい、日記に戻る。

 

昨日の、言葉にするという概念の話。復習するとうごうごした水たまりからコップに救われて出てくるのが言葉ということ。これって、言葉を信用しないというより分解できる。

 

①そもそもそのコップがあるのかが語彙、②どのコップを選ぶのかが語用、③そもそもそのコップに対応した概念をちゃんともっているのかがうごうごした水たまり、④ついでにあえてそのコップを選ぶ意志とか、⑤使い慣れた言葉を選んでしまう習慣(行動経済学で言えば何とかヒューリスティックとか言いそう)とか、割と全人格が漏れていない。これは別を代入しても同じ。これはロジカルなのか、数式っぽい気もする。

 

日本語のふわっとした感じが僕は好きなのだが、ふわっとしている道具を使っているのに一意だとする人多いからややこしくなる。例えばコンビニ店員経験で言うと、煙草の銘柄の略称が自明だと思っちゃっている人とか。割と恥ずかしいことだがそういう人は恥ずかしさに気付いていない。言葉はあくまで自分が使っている世界のもの。最終的には曖昧性に投げるしかないが、固有名詞をそうするのは違う。

 

この日本語のふわっとしたところが、ルールにも影響している。日本の憲法民法も改正がなかったのは、日本語の言葉の枠の広さによると思われる。民法はこの前改正あったけど、立法者さんって平民が条文読むと思っていなさそう。確かに読まないだろうが、読んだら分かるようにできない理由もあるのだろうな。

 

法律学は社会「科学」だとされているが、「科学」といえるのかって先生が話していた。科学の定義はなんぞやだけど、既存の現象を法則化して未知の現象を可視化すること。だとすれば、法律の条文の言葉も日常で使用されている言葉よりもっと既存の現象の集積だから、広辞苑的な意味合いで読めるものではない。

 

個人的に「芸術」が現実を可視化させるものだというフレーズを見たから、一緒なのか、めっちゃ面白いなと思う。確かに、法則からのアプローチと、舞台からのアプローチと、世界を自覚的に認識できるようになるって軌道は同じなのかもしれない。

 

 

どうでも良いが、日本人って無神論者の割に未知に対する正解への信仰篤いよなって話していた。先生とはほんとはもっと話してみたい。熱く議論できるかもしれない。まぁそんな現実は起らないのだが。人生は生まれる時点を選べないからままならない。

 

集計オタクらしく、Excelで自分の情報も統計取ったりしているとぼそっと言っていたが、僕のバイオリズムを認知すると近い。僕はあまりデータ化に重きを置いていないけれど。

 

今日はまだまだ開いている。

 

カントさんが、物事を切り開く方法論を3つに分けていた。証明、根拠づけ、解明。

 

証明と根拠づけは、ロジカルな法則で日常の人はこういう手法はしていない。したいんだったら、客観的な論拠が必要なのだが、ないのに客観としている人はなかなか。解明は、説明しにくい事柄をあくまで「自分はこうである」と可視化する手法。例えば時間を説明しようとするとき、客観的に定義できないしょうっていうこと。

 

自分の中にある当たり前を言語化するということは、世界に対して自分を開くことなのかは知らない。僕はたぶん自分の中での当たり前については自明としているが、共通項としての当たり前になると、相手に合わせてしまう。世界は自分の当たり前が通用する場ではないから。

 

ぶっちゃけ、僕はおそらくもう良いやって思ってしまったら退場してしまいそうな気がするが、もう良いやって思えない材料が用意されているのが人生なのだろうなという読み方。

 

なるほど、だから、正直に自分の当たり前を言語化している人が好ましいのか。この作業ってとても大変。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。