救済

 

 

 

起き抜け。温かくてコーヒーでもココアでもないものが飲みたくなり、初めてバタースコッチというものを飲んでみた。甘ったるいが優しい味。成分見たら今時きちんとした砂糖が使われている。だいたい果糖ブドウ糖液糖だったり、人工甘味料だったり(これも入っていた)。

 

飲み物と言えば、ブラックコーヒーと牛乳でカフェオレを入れるとき両手で一息に入れるようにしている。特に意味はないのだが、左手もあるしなという感じ。なにやらむかーしこういうCMあったようなということが思い出される。家には雪印ではなくらくれんのコーヒー牛乳が常備されていた。給食のミルメークも美味しかったな、粉でも液でも。

 

さておき。

 

感想文のノルマは達成。文字数は全然書けない。ただ、この書き方、今まであんまり使ってない頭の部分が使われている感じで良き。馴れればたぶん文字数も増えていく。カテゴリー自体も自分で名前が付けられる。当初はストレートに「感想文」にしようと思ったのだが、別に感想文を書きたい訳ではないよなと、「後味」にした。

 

意味にも味が付いている。僕はやはり、感想文や書評や宣伝みたいなことは書けない。いや、できないことはないのだろうが、もっときちんと対象を捉えたいところ。「線は、僕を描く」についてが2本目。ネタバレも特になく(たぶん)、僕にとってのこの本が何を意味したかというようなことが書かれている。それなりの感想文のような言葉は書いているうちにカットされた。枠を形作る言葉は最低限で良い。

 

という感じで、この本は僕の世界の解読を進めてくれた。「美の祖型」がテーマで、これって哲学のテーマとしてもまだ謎が解けてない。ただ、僕の中では暫定的な解答があった。

 

美は現実として外に存在しているものではなく、それを感じる人の内面に起こる現象である。

 

同じ現実に接して何も感じない人とそれを美しいと感じる人が居ることの説明にはなっている。美的感覚は個体差がある。ただ、そうなってくると普遍的な美は現実として残り続けているし、そもそもこれは経験の前にあるものなのか、経験があるからこそ感じられるようになるものなのかという話になってくる。

 

これに対する試論としては、美って生命を継続することには不要なもので、世界の余白に当たる。で、余白を捉えるためには、一般人には経験も含めた試行錯誤が必要。一握りの芸術家はおそらくもともと余白を見られるし表現できる。だから、経験の前にある機能なのだとは思う。ただ、余白を作ろうとしないとそれは見えるようにならない。

 

味覚も似ている。もともとは死にそうな物を摂取しないようにするセンサーで、栄養価が高い物あるいは優先順位が高かったものを美味しく感じるようになっているが、試行錯誤によっていくらでも細分化される機能。

 

真っ白な部屋は、あるがままに無為に流れる現象としての自然を捉える目としてのメタファーでもありそう。

 

内面にある現象が美であるとするなら、世界そのものも内面の投影である、で良いのではとなったのが解読。僕はもっと自分勝手に生きることができうる。

 

ところで、言葉も内面から現れる葉っぱ。植物学の話を読んでいて、葉の形が特別というフレーズがあったが、落ち葉で全く同一の形のものって存在してないよなって思う。類型で葉っぱを見れば同じようなカタチではあるが、細かく、例えば顕微鏡レベル、もっと細かく見えるもので見ればきっと同じ葉っぱは二度とない。人もそういう存在。

 

意味不明な人達。これってもっと柔らかく適切な言葉を当てるのであれば、不思議としたい。

「思考で定義できず」な存在。ここで高校の漢文。誰かさんがレ点をすっ飛ばしたとか何処かで書いていた。僕は特に漢文に違和感がなかったのだが、ちょっとお勉強的な話。

 

レ点とか一二三点とかあったが、まずは読まずにすっ飛ばして、レ点なら一字戻りだし、数字がついているのはその順番で戻る。これって日本語の構造が順番に礼儀正しく読むというところと他言語がズレているから読めるように記号を付けただけ。

 

構造としては、漢文と英文って結構近いよな。方向性を先に示して具体的なところに行く。日本語は最後まで読まないと意味が分からない。僕は、夕日を、美しく、思、

う、わない。

 

まぁ日本語にも意味を強調するために倒置法があるし、発話でも感嘆詞から始めるとかでやりくりしている。でも漢字の単語としてセットで使われているから分からないけど、不明は意味としては「明らかでない」だし、否定を意味する単語は漢文から採り入れられたものがいっぱいある。非難は、ちょっと違うな。

 

という感じで、僕は日本語にもともと馴染んでなかったのかもな。漫画を最終巻から読み返すとかできるし。いや、これはまた別か。

 

主語がないのは、語りの場において主語は自明だろうという意識があるからで、別にすっ飛ばしている訳ではない。すっ飛ばしているように見えるみたいだが、世界は見えないものでも構築されてないか。主語を必要した対話しかできない人とは対話はできない。

 

大事なのは構文ではない。

 

 

また戻って来て人間関係の再構築。

 

話せる人とか、近く感じる人とか、結局は僕の内面の現象でしかない。ただ、言葉が出てくるということは心を許している。この現象は僕にとって生活の維持より尊いこと。もともとこういう感覚で接していたものだから、無防備過ぎて何回殺されたことか。

 

この世界観で見れば、経済的あるいは社会的な人間関係の繋がりの前提ありきの人は、あくまでその枠の中に在る人になる。だから枠内で大事だって言われてもそれは代替性がある意味よなって。

 

いや、これが悪いとは言わない。ただ、余白はなさそうだというだけ。

 

僕が直に会ってみたい不思議な人達は、なんというか、挨拶できるだけで充分な感じ。

でも現実的にやると引かれるに違いない。何か他意があると捉えられる。たとえば性欲とか、他に何かあるだろうか。

 

僕としては、僕の直に綴られる言葉がその人の中にあるのかが気になる。

 

こういう世界観は自分の不思議さを受け入れているからであって、やっぱり世界はうつしよでしかない。充分好意はいただいておりますという味わい。

 

別に越境しなくても良いのだよな。

 

挨拶も自分の為にしているから、しないこともできるし、することもできる。

 

よし、寝よう。

 

おやすみなさい。

 

温かく過ごせていますように。