越境衝動

 

 

彼方の画に見ゆる雪一色の美しき

写る足跡一対に並ぶる心の浅ましき

 

タイトルを書かずに投稿する技術がまだ分からないためここで1句。どこかでは雪が降っているらしい。たしかにこちらも随分寒くなった気がする。皆さん不便してないだろうか。

 

不便より雪に肩を持つ薄情者です(自白)。

 

夢には、ただ通り過ぎただけの人物が諸々でてきた。ちょとした祭りの様相。今や廃校になっている中学校が舞台で実際何かしら祭りがあったのだよな、昔。スーパーボールとかかんしゃく玉(衝撃を与えると火薬で爆音がなる)、名前忘れたが、階段をみょんみょん降りるばね上のおもちゃ。

 

出てきた人物は、コンビニバイト時代の後輩とか、高校時代のバイト先の後輩とか、ほんとに特に関係以外に関わりがない人達。あと、出自は分かっているのだが、ツインテールの女の子。なんとなく、あのときできなかったこと、しなかったことがある自分を想う。でもそれも含めて自分のそのものでしかない。

 

そうして、雑談の懸念も勉強道具持ってきても良いと言われた期待も全部吹っ飛ぶ休日仕事。ある意味お祭り騒ぎで、今週の中では一番仕事した。謝り倒す一日。まぁそんな日もあるわなという感じ。

 

そんな忙しさの合間でも雑談があり、女性上司はやはり人のことを知りたい人なのだろうなと思った。知る手段として聞くというのは割と常套手段というか、結構ずかずかしている。でも、悪用(裏で悪口言うとか)をしようとしている感じもなく、まぁえぇかと僕も割とずかずか語る。家族の話をしても父親の話が出てこないということは前情報として知っていて、言わないようにしてくれているのだろうなという配慮が読めるし。まぁ、上司としての仕事スキルかもしれないが、そんな作為もあんまり感じない。

 

やはり話は1対1でするに限るな。他の人との会話では見えないところが読みやすくなる。

 

僕は人を分かりたい人だが、その為にソクラテスメソッドを使うのは悪手だと思っている。問答形式だと問いに対する答えしか返ってこないから、基本的に作問形式の話はしない。演説形式もしない。じゃあ何をするのかというと、だいたい相手が勝手に話すのに任せていて、ちょっと雑過ぎたかも。反省。今度プライベートであれば、もう少し円滑にしつつ、自分の存在も主張しなければ。

 

ついでに、休憩時間に母親との通話。ワクチンを打ってないのはこっちに帰りたくないからではないかといちゃもん。なんぞ、ここでも仕事の会話スキル使わんといかんのか。言い分は分かる。これからの世の中で生活する上で打ってないと不便だという言。さらなる変異株が出てきたという情報もあるらしい。世の中では3回目を打つとか言っているのに、まだ一回も打ってないのは云々。うん、そういう人だった。

 

色々言われても心が動くことがなくて、僕はなんだかんだ「頑固者」なのかもしれないと想う。いや、僕を読んでいる人はとっくにそんなこと分かっているような、はて。

 

女性上司にこのことを話したら、案外寛容で本人が決める問題だよなという回答。この職場では特に差別はないが、知り合いの職場ではそういうこともあるけど、あくまで自分が決めれば良いよなと。

 

母親から打たないという信念があるのか、と聞かれたときに頑固者なんかなと思った。

ただ、ちょっと待ってくれ。行動経済学の手法で、良き方向に誘引するナッジというものがあって、それをすることで社会的に何か良いことがあるという報酬を与える。でも、素朴に考えれば、本当に良いことであれば義務化すれば良いんでは、できない理由があるからそういうキャンペーンは張らなければいけないのではという推論がまず1つ。

 

別に陰謀論とかの話ではないし、信仰上の理由でもない。

要は、安心の話。海外論文を翻訳している情報源だと、これを打つことによって基礎的な免疫作用が低下するという話もある。

 

どちらが本当なのかは定かではないが、結局のところ積極的な理由がないという意味で今のところ必要に迫られてないという回答を母親にはした。母親がいう「世の中」ってあくまでこの人が観測している情報源だけの話であって、世界規模でも科学的な真理でもない。

 

うつしよの世界だから、別に母親の世界観が悪いとは思わないし、僕が母親に親しみを感じているのであれば、母親の安心感の為に打っても良いかなくらいの気分ではある。なんというか、これを深刻に捉えてはいない。恋人さんが心配症だったらたぶん問答無用で打つと思うし。

 

見えるようになったから不安になっているだけで、もともと潜在していたことなのではなかろうか。人の手はウイルスだらけだし。粘膜もなおさら。

 

安心に重きを置かないといけない人生は、いつもどこかに不安を見つけることになる。

安心は気分であって、現実でも実存でもないからいつか無くなることの方に焦点が当たっている。

 

僕を動かしたいなら、世の中ではない自分の意見を持ってこいという話。

ここまでくるとはたして頑固という言葉が当てられるのかは不明。一定の人からすれば頑固と見られることもあるというくらいか。

 

結構すぐ動かされるとは思うのだが、動かされる水準が多数決ではなく個別的な人とか存在というだけ。自分の認識に安心しないし。かといって、自分自体に実存がないというのもない。

 

母親から「考えてみて」と言われたのだが、何かの選択の為に考えるってこの人の中で何を示しているのだろうと考えると、考えたら自分と同じ選択をするに違いないってことだと思う。

 

たぶん、一般的な語用の「考えなさい」はこういうこと。当人の選択は思考と経験則のブレンドなのに、これを考えれば辿りつく真理みたいにしていて、当人の中でも言語的に道筋を追えるものではない。経験知というブラックボックスまで言語化して思考を語れるって基本的に無理。

 

思考法で言っても、演繹的なのか帰納的なのか統計的なデータの分析なのか行動経済学的、心理学的、いっぱいある。自分の中の当たり前をただ言語化することを思考とするのも思考。これが美味しいんだが、これを僕に適用して来られるようになると、であれば論証が必要なのでは。あんまり言葉を闘わすことはしたくないから、はいはいって受け入れた風になっていたのが僕のかつての現実。

 

考えることをあなどっていませんか。

 

とか言いつつ、僕はこういう意味では全然考えていない。自分がより進むとか、選択を間違えないためにみたいな考えを展開することはないし。まぁ読んでいれば分かると思うが。

 

というか、全部は書けない。

人を表現するには言葉は遅すぎるから。その拙さが分かっている人の言葉が美味しいのだよな。挙動とも発話とは違うところで言葉を扱う人。

 

 

世界に対する試行錯誤。

 

僕が割と現実世界で自由になったのは世界が人それぞれでしかないというところ。

ある意味寂しく見える。でも素朴に考えると、自分の世界における誰かの存在は自分が見える範囲でしかないし、相手からの自分も然り。

 

僕は自分を無いものとしていたから、相手から見える自分像をなるべく壊さないようにと生きていた。でも、内観を分けていくと、別に壊しても良いよなとなってきている。

 

どこまで壊すかの自由性。

相手の世界観居る自分も、僕の世界観に居る相手も任意でしかない。この考え方は他人がやっているのを読んだとき相手のことを蔑ろにしていたため、やらない方が良いと学習していただけあって、基準がブレてややこしいことになった。

 

世界観とは別に僕を残してくれているのは尊いことだよなと。

そこは解読したい。

 

他意なく。

 

主観的世界だけで生きることができなくなったのはしょうがない。

 

はい、おしまい。

 

暖かく生きていますように。