跳躍

 

 

どこからもだれからもヒトシクトオク。

 

遠目で見ようとすると大気圏外に突き抜けてしまうのではないかという奔放性。静止し続けるにもエネルギーが要る。

 

最遅番だから休憩室は独占できる。そのため弁当写真も撮れる。というか周りに人が居ても気にすることはないのか。インスタ映え狙っているとか思われたとしても特に害はない。実際にがつがつ来られたら見せても良いし。玉ねぎスライスのオリーブオイル漬けは血液がさらさらになりそうな気がする(プラシーボ)。

 

そもそも他人を気にしなければならないほど何かがある訳でもないしな。

自分勝手性というか、気にしぃの癖の排除。こういう何気ないことが根深い。

 

遠めからみても近くから見てもゾウはゾウの像よなぁということを考えていて、ゾウの傍から見えるゾウは足だけで、全体ゾウは見えなくて、ではどこから見えるゾウの像が正しいのだろう。そもそも正しいゾウってなんだ。

 

僕は利害関係のない人をどう扱うかがその人の本質に最も近いのではという気がしている。まぁ利害関係が全くない人って人ではない気もする。結局のところ、ゾウを何処から見たいのかという話か。

 

人と人の間にある距離は創作された概念なのではという疑義。

 

口内炎が染みる。

 

人物評価。文章=滋養派ってなんか良き評価。別に何か覚醒になる訳でもない。美だって感性で味わうもので、文章も自分を使って味わうものという意味で、味を楽しむ滋養としての意味はある。

 

いや、書く文章については場合によって覚醒効果はあるかもしれない。後味の文章は自分の本質の言葉探しみたいな感じ。読まれてどうかみたいなことは考えていない。読み物としては良い出来ではないはず。次は何にしようかな。後味だから別に対象はアニメでも漫画でも何でも良い。なんならクスノキ先輩とか太陽の塔とかでも。劇評で書いた演劇についてもう一回改めて書くのも良いな。対象がどうのというより、対象が自分の中にどう在るかを言葉で描く所作。こんなの需要がないし、聞いてくれる人も居ない。僕はそんな変人が居れば聞きたいが。

 

人物評価といえば、植物学の小説で、教授について「スルメイカみたいな人」というのがあった。誰に言われたかは定かではないが、僕もまんまの評価を受けたことがあり、結構ありがたい評価だと思う。噛めば噛むほど味が出る人格は優しいとか良い人より稀有できちんと見て貰っている感じ。スルメイカ好きだし。

 

僕は人物評価を一言で述べるとか無理。ゾウの足としての描写をすることはできても人の全体像は僕には捉えられない。だから人は寄り添いたくなるのか、はて。

 

さておき。

 

お風呂読書時間の本群、はたして何キロになるのだろう。便座が耐えられるのか気になってきた。専門書と文庫で計40冊くらいはありそうな。1冊1冊書くとただの文字数稼ぎになるため省略。ちょっとずつ全部読み進めていて、読み返しというか1回では分からないから周回している枠が半分強。10キロくらいはあるのか。聞いたことない癖。

 

いいとして、「絶望という病」はなかなか慧眼というか、自分自身にならないためにその時代の現実に身を堕とすみたいな感覚はどの時代にもあるのだなと思った。別に非難でも批判でもないが、人の本質は実生活とは離れたところにあって、ただ実生活が大事だとして調律させている。ほんとの自分で居ることはほんとに怖いこと。

 

僕は人の言葉にコメントしたくなる衝動を抑えるのが大変なのだが。これは別の話かも。

コメントできる言葉はもうやたらとあるのだが、別に利的関係の人でもないよなって。この制限を撤廃させてくれたのは私信だったのだが、これはあんまりやらない方が良いと思う。

 

世界観を壊すとかではなく、相手の世界にお邪魔して談話してしまう言葉を綴りたくなる。

完全に領界侵犯よなって。独り言的な存在の言葉と会話しようとするなぞ。

 

まぁ、独り言としての言葉もその人の本質には近そうだが。

 

ちょっとお勉強の話。

 

刑法に罪数論という分野がある。ニュースでは有罪か無罪かばかりが問題とされているが時々刑が軽すぎるみたいな話題にはなるところ。

 

複数の犯罪に当たる行為をしたことに対して、どういう罰を与えるのが常識的かみたいなこと。今まで全然分からなかったのだが、最近やっとこの社会的な常識上どうなのかというを問題としているのかとなり、若干しっくりきた。

 

専門的なことを書いても面白くはない。僕にとって全くまったく利害関係がないことでも、僕が生きている社会のことなのだよなという意味で外のこととして捉えないという世界の見方が大事だった。

 

知識とされているものは別に外にあるものではない。

外にあるものとしても残せるほどの記憶力がある人のことは知らないが、全部がいま生きている自分の世界のこと。こういう読み方は教えてもらわなかった。

 

正しさを吟味するためには正しいこととして採り入れないようにしないといけない。

これが難しい。

 

なんで難しいのかというのは、現代が視覚社会であることにも起因していると思われる。

 

視覚=見えている象って揺るぎなく正しい世界だとされるが、視覚をコントロールしている脳の領域は基本的に静的というかなまけもの。一回大丈夫になったら、それは自明としてそれ以上見ないようになる。まなざしみたいな意識・意志的な視覚ならともかく自然に見えている世界は、脳が怠けて構築したものでしかない可能性がある。

 

「脳の中の幽霊」で視覚を書き込む脳の機能というのがあったから、絶対怠けさせてやらんとしている。

 

植物学の小説で、ヒロインが、観察力を磨かねばというのがあった。

僕に観察力があるのかという命題は、いやぽんこつだろうとなるのだが。

 

でも、観察しようとする意志では観察できるようにはならないということは分かる。観察しようとする意志は、自分の無意識の視界を前提としているからその中でどれだけ見ようとしてもその外の非視界は見えるようにならない。

 

個人的にまずは自分の視界がなんであるか自体を観察することが大事。

主観ではなくメタで。メタ観察して自分に有用なものしか見ないのであれば、観察はそこまでになる。でも、別にそれで良いと思う。そういう人には僕は引っかからないと思うのだが、時々変なことが起こる。

 

 

はい、おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良くなくても自分を認められていますように。