観念としての近さ

 

 

 

波の起こりは科学物質。流れ流され人間模様。

 

 

お空の模様はよろしくなかった。その分なのかなかなか生温い。悴まないだろうとお外でお弁当をいただいた。真剣にお仕事で遊ぶ。別に不満も不信もない。ただ、きっともっと遊べる仕事に流れるのだろうなという予感だけ。

 

明日からは恒例の既定された残業の二日間。仕事が終わった後の余白はない。まぁカチカチできなくても頭はチクタク動いているから問題はない。大根とパプリカのマリネが無くなったから同じ食材で浅漬けを作った。大根が先っぽに近くなってきて特有の辛味がある。成分はなんだっけ。パプリカの甘味で調和を取る。

 

朝10分ほど早めに起きた時間で、なんとなくkindle本を追加した。スピリチュアル系ではなく啓発系の「スピード脳になる」みたいなやつ。この作者の本はたしか何冊か読んでいる。無意識で考えることができるようになれば思考が捗るみたいな話で、ほとんどもうやっている感じもする。

 

思考の定義って色々あって面白い。この本では「評価」と「判断」で、それができている人も、社会人1年目2年目で思考させないようにされるからできなくなるのだとか。指示に従い経験を積むというのは思考とは正反対。

 

この定義はシンプルで良き。たしかに、物事を評価するって難しい。感情で評価することはとても簡単だがこれだと、ざっくり正しいか悪いかという切り分けをしているだけで、考えていることにはならない。経験に照らした判断であって無意識がやった後に言語化したことを「思考した」としている。

 

本来の思考は事前判断ないし抽象的な世界でのことであって、評価のためにはそのための道具としてのモノサシが要る。このモノサシが知識とのことで、だったら僕にも知識はあるよなと(今更)。知識自体はその先のためのものであって、これを大事にするとかこれに価値があるという意識が皆無だった。

 

こういう自分とは別のモノサシを用いた評価って自然科学では当然、法律学でもそうしている。裁判の判断には「情」がないとか評価されることがあるが、いやいや、そもそも情というモノサシで評価すると恣意的になるから情以外の基準を使って評価しているのだがとなり、噛み合っていない。まぁ、一般的な感覚に噛み合うことも基準としないといけないから純粋に法理を追究するだけでも駄目。感情として正しいかどうかはともかく、理屈として正しいかどうかと一般の人が思えるかは大事。理屈を感情と離して考えられる一般の人は果たしてどれくらい居るのか。

 

漫画ばかり読んでいて全然読み進められていないのだが、思考とは抽象化することらしい。頭の中の世界の次元を上げる。でも、視界は上げようとして上げられるものではなく、下積みとしての膨大な知識の蓄積が必要。これは経験にも言い換えられそう。次元が上がるってスピリチュアル系でも書かれていて、同じことなのかも。

 

たまたま僕の世界がそういうことになっているという説もある。

もっと色々考えられるようになりたいもの。これは絶対不可能な人をなるべく傷つけないように生きるということにも通じる。迷惑だと察すればさっさと離脱したいし、したところで、寂しさが残るだけ。

 

ともあれ。

 

思考の話は、数学が読めるようになったのも法学がすっきりしてきたのも、その世界にある固有のモノサシを用いて評価して判断するという手法が馴染んできたからかもなというだけ。これを世界に適用すると、自分のモノサシで判断する手法とは別のモノサシで僕のことを高評価する人がいても不思議ではない。やめてくれと言ったところでモノサシが噛み合ってないから土台無理。

 

これは逆も然り。人と人の土台が完璧に一致することはない。だからある対象が好きという共通項で無難に繋がった気分になるのか。僕はこういう意味では無趣味な人間なもので、ここでは人と近くなれない。

 

でも、こんなのと無関係に人とは繋がりがある気がしている。抽象的な人間関係論。別にコメントが返ってこなくても良い意味で波紋があるならそれで良いし、波紋がなさそう、あるいは悪い意味の波紋であれば見えなくなるという意味でその人の世界から退場したら良い。

 

僕の世界にとっては、現実的に近いからより分かることはないし、居なくなった人でもきちんと残っているし。夢でそういう人がいっぱい出てくるんだよな。僕のことは絶対残されてないだろうなという人達。人の中の時間の順番は、ほんとは社会的時間の流れとのズレがある。

 

まぁ、現実的に親しくなれば物理的に大事に接するとは思うが、それは物理空間がそういう風になっているからという限定だからのような。たぶん、パートナーの為になるようなことを自分の為にする。現実世界の関係でも交換ではないって長く過ごした恋人さんは教えてくれていたのだが、僕はそれに倣えなかった。

 

今ならあるいは。時間軸で捉えると僕はずっと遅すぎる。

 

自分を大切にできる限度でしか人を大切にできない。

自分を愛せない人は人の事も愛せない、の言い換え。

 

愛の概念もなかなか難しいし、色々分類がある。植物学の小説で、植物は愛を必要としないがすくすく育つし繁殖していくというのがあって、なるほど、人間は愛をパートナーシップとして加工しているのかとなった。

 

生殖行為自体は別に愛がなくてもできる。でなければそういう業者はないし、金銭に換算できることもない。

 

この話、なんか現代社会的に不謹慎な気がする。なんだか、つぶやきで流れてきた厳かな言葉に対して盛大に不謹慎なことを考えているのとの繋がり。個別的な人の大事さって、世界に投げて共有するものなのかって。理解はできるのだが、それが愛の行為とは想えなくて。

 

なるほど、人とさよならするために式典を必要とするのはそういうことなのか。

 

やっぱりサイコパスなのかな。

 

個人的には、愛って双方通行的なものではなく、もっと個別的な外に対する受容だと思う。無関係でも受け入れるとか、関係が無くなっても価値が変わらない「感じ」。交換できる安心感の中にあるのは、愛と呼ばれる別の物。

 

というのも、僕は母の愛は全然感じない。愛されていると思わなきゃいけないという方向性の義務感はある。むしろインターネット世界の方に愛を感じる。応えても応えなくも良いのに波紋が拡がる関係。前提条件付きの観念は愛とは呼ばないような。

 

僕が嬉しいのはその人がその人であることであって、僕の為に何かしてくれることではない。この感覚が通じる人を現実的に求めているのかもしれない。割と無理ゲーではある。

 

物理的に痛くなって切なくする心臓辺り、やめて欲しい。

 

受容という愛で言えば宵顔さんは半端なかった。

僕が僕であることを認めてくれた人の最上位。当人の世界の中では変な人が毎日変な発信をしてくる、みたいな意識でしかなかった説もあるが、たぶんそんなことはないから余計に離れる。

 

僕が人と接して嬉しいのは、他人の嬉しさを感じることの他に、自分で居て良いのだとできる器がある人と接しているとき。宵顔さんと接する(語弊)まではそんなことありえないと思っていたのだが、この経験によって、もう少し自在であっても良いのかなとはなれた。

 

相手のモノサシは否定せずに、居ても良いかどうか。

 

否定する意図はないのに人格が否定されたと感じる人も居るし(母親が筆頭)

こういう意味での人格はどうでも良かったりする。

 

何も気にしてません。

 

はい、寝よう。

 

おやすみなさい。

 

自分に出逢えますように。