ぶんたい

 

 

 

「まだ終わっていない物語を人生と呼ぶのだ」 by「熱帯」

 

 

 

文体が合わなくて読めないという文章評価って嬉しい。読めないと言われているのだから凹んでも良いくらいなのに、自分の感情の起こりは意味不明だ。

 

これは、僕が日記を徘徊して読んだ人が二日続けて「文章」という検索ワードに引っかかり、足跡を辿って読みに来てくれてしてくれた評価なのだが、僕に対する評価とは限らない。もう1人同じような人が居たようだし、ただの想定。

 

感情の起こりを分析すると、一応理由はある模様。同じ読めないでも、書いていることが意味不明とか、長文だから駄目だなら全く読んでいないが、文体を読むところまでは入って来ていただいているし、文体を評価されるってなかなかない。

 

まぁ、僕ではないだろうなという理由もあるため、想定で留まっている。まず、文体が村上さんとかサリンジャーみたいだというところ。読み返しても自分でそんな感じはしないし、サリンジャーライ麦は読んだが、文体も内容も全く出てこない。

 

個人的に村上さんの文体を一言で表すなら「絵画」だと思っている。音楽はいっぱい登場するが、静止画な感じ。これってなんでだろう、と湯舟に浸かりつつ頭に浮かべてみる。これって、時間の流れがないってことだよな。もちろん物語だからシーンの展開もあるし、時間も流れているように見えるのだが、文体としては流れていない。分かり易いのがノルウェイの森と世界の終わりとハードボイルドワンダーランドで、前者は冒頭以外全て回想として時間から離れているし、後者も脳内時間みたいなところがある。

 

そうして、もっとも僕ではないだろうなというところは、「文章が上手い」というところ。僕の文章は全然上手くないと思っている。人によっては美味いことはあるかもしれないが。僕の中の文章が上手いというイメージは夏目漱石とか谷崎潤一郎だから、まだまだ日本語を上手く扱えるところには至っていない。文体は文章の巧拙とは無関係に存在できるので。

 

僕が初めて読んだのはこの人がミクシィ世界の関係に苦言を呈している文章だった。曰く、人と関わるなら最低限相手が書いた文章くらいは押さえるべきで、読んでいればプロフィール情報くらいは把握できるだろうから、いちいち聞いてくる人はあんまり読んでいないのだろうと把握されるとのこと。

 

とても分かるモノサシ。僕も関わるとかどうかは別として興味が沸いた人の日記はだいたい全部漁る。通せば文体、生活情報、ある程度の信条とか思想とは頭に入る。世界に怒っている人なのか、穏やかに世界を眺めている人なのかとか。

 

ただ、僕がそれを求めるとなかなか酷かもしれないとも思う。ここで書きだしたのが4ヵ月前で一月30日と概算して120本日記があり、1本2分で読める人でも240分かかる。6時間読んでくれとはなかなか言えない。最低限プロフィールに貼っている日記で良いかなという感じ。

 

毎日1本読んでくれている人でも積み重ねたら同じことよな。僕が強制している訳ではない自発的な2分×日記日数(3000文字を2分ってかなり読み慣れた人が想定されている)。役に立つ情報を書いているメルマガでもないし。もはや凄く仲良しでない?

 

継続的に書くのは僕の勝手だが、継続的に読むのも大変なことだと思うんだよな。

 

僕は毎日必ずチェックすることはなるべく断捨離している。

 

まずテレビは耳にうるさいので観ない。マルクハーンさんのメディアでテレビは聴覚メディアだという言が今朝窓を開けていたら隣からテレビの音が流れてきて実感した。テレビの音声ってテレビ自体を見なくてもテレビだって分かる。独特のざわめき。

 

だいたい二度寝前に、ミクシィで「文章」「読書」「思想」「思考」「小説」の中からランダムで日記検索し、面白そうな文章に飛ぶ。

 

起きたあとは、PCを起動し、法学関係の最新ニュースをまとめているページから、面白そうなPDFファイルを読み、このご時世の情報ソースとしているページの更新を確認。だいたい世の中が悪くなっていくという味付けの文章なのだが、海外の一次情報の翻訳が付いているから参考にしている。

 

はてなブログのアクセスの確認もする。これは増えているかどうかではない。宣伝してないし文字だけだから、そんなに人は来ない。問題は宵顔さんの挙動。そうして、宵顔さんのインターネット世界の更新があるかどうかも毎日チェックしている。noteの更新までは及んでいなかったが。

 

最後に漫画くらいか。ジャンプのアプリの更新を見る。Kindleも毎日読み進めてはいる。

 

これが毎日のすべて。

 

広告が出てくるような情報確認はない。自分が欲しい物があれば楽天ブックスとかで見るし、レシピを調べることもあるが、必要な時に自発的に調べる随時的な情報検索。

 

情報に触れすぎると溺れるというか、脳が思考をサボりだす。

脳にとって変化がないことは、淘汰すべき情報だから、昨日の情報と今日の情報が一致しているとざっくりみなす。毎日同じ生活圏で動いていると、細部の違いは鑑みずに、今日も同じだと解釈するから、日常は全然変化がなくて退屈だということになる。

 

通勤路に場があるのだが、今日ふと見たら、1つだけポップなお墓があって、「出逢ってくれてありがとう」って彫られていた。いったい何教のお墓なのだろう。

 

謎だらけ。

 

お墓も宗教観がないと生まれない。あぁそうそう、今日はあんまり考え事ができない情緒だったのだが、プレゼントの観念も倫理というか宗教観から生まれているのだろうなと発想した。贈り物の概念の原初は、人身御供にありそうな感じ。ここから自分を分け与えるみたいに繋がる。先生は宗教と倫理は違うという説だが、僕はあんまり変わらない気がするんだよな。外付けの安心とか価値とかいう意味で。受け取ることと与えることは同じことだとすると、別にプレゼントは物でなくて良い。

 

 

タイミングという名の神様の話。

 

昨日の日記を書いたあと、はてなブログを更新しようとしたら、メンテナンスになっていて、更新できなかった。そのため、自分がやめとこうとした私信で宵顔さんに文章データを送るハメになる。

 

あと3分早ければそんなことにはならなかったとなると、この意味の神様はいったいどうしてくれようとしているのだろうとなる。もちろん自分ルールを貫徹して、更新できなくても発信しないという選択もあった。ただ宵顔さんの可愛げの為。

 

個人的には、私信を送ることはとても好きだったし、返信がないことが気楽に僕と関係してしてくれいるという意味で良かったのだが、それではあかんだろうとしてやめたのに。

 

文章はいっぱい書いている人だから、文体から推測される人格はあるのだが、この人格が僕を読み続けていることはありえなくて困る。読み続けるのは、一方的観測でなおかつ飽きるまでという言葉あるのだが、僕は当人を観測している訳で、このモノサシとは違う。

 

便利な人でもないしな。

 

冒頭の「熱帯」で、人が幻想っぽい下りが出てきたときに、僕が捉えている宵顔さんはむしろ僕が勝手に構築した想像上の可愛い人でしかなかったら良いのになって思った。

 

これは現実で検証するしかないのか。

 

感情の起こりが意味不明。

 

 

最後。

 

僕は割と現実的なところから地に足を付けて世界を捉えているつもり。

固定観念はぶっ壊すし、もともとそれがあるのかどうかから考える。

 

ただ、地に足を付けてという概念に地球の重力の核はマントルであって地面ではなく、地面がなくなることもありうるという発想が起こった時点で、あまり現実に足がついてない気もしてきている。

 

では。

 

おやすみなさい。

 

僕の文章なぞ読まなくても良くなりますように。