勝手

 

 

 

平家物語のことを考えていたらお弁当を撮るのが抜けた。抜け作だが、撮ることを義務とは捉えてない関係の気楽さが良い。だから続く。

 

平家物語。12月にこれを下敷きにした演劇を観るため予習として一通り読んでおこうと思っている。ブックオフに売っているかなと思ったが、著作権フリーすぎる作品だし、ネットにあるかと調べたら、あった。大学受験の支援っぽいサイトで、他にも方丈記枕草子源氏物語伊勢物語土佐日記竹取物語と垂涎物である。そろそろ日本の古典も読み進めようと思っていたところ。

 

予習するには結構長い(ありがたい)。琵琶法師の暗記力すげぇ。

古文の表現ってシンプルで良い。冒頭文の続きの第一段の最後が「心も詞も及ばれぬ」で結ばれていたのだが、とても好きなフレーズ。想像でもできないし言葉でも書き表せない、を文字数カットで言語化できる。

 

果たして1日に何文字読んでいるか数えられない。だいたい最後に15分くらいずつ読んでいる新刊小説が1週間くらいで読み終わる。あとインターネット世界の文章にお邪魔したり、kindle本を時々読んだり。専門書はもはや換算不能。読んだ冊数が財産にならないもので。

 

植物学の小説の上巻がさっき終わった。あとがきでやっとタイトルが把握される。

「愛なき世界(上)」。このタイトルを見て、なるほど、植物界の愛なき繁殖と恋愛に疎いヒロインとの人間模様の話なのかと分かった。それとは別に、このタイトルから、「あいなーきせかいでーきみをーこんなにあいするーほこらーせーてくださいー」というポルノグラフィティの歌が出てきた。アルバムにしか収録されてないマイナーな曲だったような。

 

僕は別にここでいう「愛なき世界」でも十分楽しいし、なんなら愛をひしひし感じている。

 

誰かさんが沖縄でやぎを食べているとき、僕は仕事をしていて仕事帰りに星を見る。月はまだ見えない。

 

全然十分な感じ。

 

 

お友達が物欲とプレゼントに対する感謝について書いていた。僕も物欲はないし人から物を貰うことに対してあまり嬉しく思わないところがある。お友達は、これを自分の生い立ちから考察していた。たしかにちょっと分かりみ。

 

ただ、情報が大事と自省していたところからすれば、我慢という評価ではなく、単に重きを置くところが違うだけのような。

 

僕がこれだから。既定された何か、例えば誕生日プレゼントとかより、自分のことを見ているという何気ない波紋の方が嬉しい。近いという「情報」としての滋養。僕に対して何かしなきゃならない、あるいは、何かしたら感謝が返ってくるだろうという邪念みたいなものがあるのがどうも。ほんとにしたいと思ってしたものであれば、感謝という対価も要らないはずよなと。

 

僕の文章体に邪念はないのだが、現実世界では学習された関係論に流れてしまっていた。このずれが早く分かったらもう少しうまくいったのかもしれない。この目であればある程度対象をあるがままに見られたのに。

 

まぁ見えて動けたところで、やっぱりここはここのままという気もする。

でも、行動はもっと変わっていたのかもしれない。

 

自己像としてしたかったのにしなかったことを、したつもりとしてカウントすると自己観が歪むよな。でも、ここを自己の善性みたいにカウントしてしまっている人も多そう。

 

これは、人は物理的に動かなくても運動できるという証左。

 

社会人類学を読んでいると、人間社会はそれぞれでここにある規範に従うことは儀礼的に大事だとは思う。ただ、儀礼の中にある行為の交換が果たして、自由意志の結果なのかとなると、そうでもない。社会の中で親切に振る舞うことは、攻撃対象にならないという自衛的側面があるし、その所作に自由度はあまりないような。

 

いや、その先のまぐわいによる個別的交換であれば社会からは離れるから大いにすれば良いし、したい。あんまりエロくなくて、良い感じの漫画がありまして。

 

要は、社会において自然体を保って動くことは不可能ということ。できるとすれば互いが社会性とは完全に離れた関係であることだが、社会規範という条件付けから解放されるためには余計なエネルギーが要ることで、そんなことは普通必要に迫られない。

 

僕は、儀礼的な親切はあんまり親切とは思わないのだが、それを越えた人のポリシーみたいなのが嬉しい。現実世界で上手く行っていないからインターネット世界に逃避しているなんてことはなく、インターネット世界の方がポリシーは見えるし、懐かれている感じも自分が心を許して懐いている感じも良き。

 

逃げるために創っている訳でも無いし、自分の現実体から離れようとして過ごしている訳でもない。

 

キルケゴールさんが世界文化史で出てきて、恋愛関係も上手くいかなかったから個人の実存とはなんぞやを哲学して、「死に至る病」=絶望を見出したとのこと。なんとなく馴染むのはそういうことかと思ったが、僕は別に卑屈な意味で上手くいかなかった訳でもない。

 

恋愛してくれる人が現れたら全然ありうる。独身、未婚、料理はできます、仕事もします、貴方のことをきちんと見ます、要募集、みたいな。

 

別に無くても過ごせるという意味では独立体として確立している。

人を自尊の為には遣わない。

 

寂しいのではなく、単に当人を欲しているというだけで、なければないで問題ない。

 

これはある意味薄情であって、不健全。

フラニーとズーイ」でこの単語が出てきて、僕が不謹慎だと思っている感覚は不健全と評されるものなのだろうなと思った。健全な精神性って、おそらく世界の人は自分の為に存在しているみたいな感覚。

 

道徳観で、自分がされて嫌なことをしないというモノサシがあるが、こんなの当たり前のこと。自分がして嬉しいことをされたいのかとなると、ほんまかとなる。褒めたいとか感謝したいを反転させると凄く傲慢になってしまう。道徳観も遅い。

 

世界に投げている言葉はあくまで自分勝手なものでこれに対して何か返そうと思わなくて良いです。

 

僕が勝手に近さを感じているだけ。

 

 

はい、おしまい。

 

おやすみなさい。

 

面白く過ごしていますように。