自分

 

 

本日はお弁当を撮るのを忘れなかった。その分卵を買うのが抜け落ちて残業デーなのに副菜を作る羽目に。ピーマンをレンチンし、めんつゆやら干しエビやら胡麻ふりかけやらを加えたら思いの外美味しい。

 

平家物語も美味しい。冒頭文しか残ってなかったにしては読んでいると何か残影がある。忘れ物の扇を月に見立てて、「これはどこから漏れた月の光でしょうか、出所が不明です」、「雲間から漏れたものなので、並大抵のことでは言わないと思います」とか、おしゃれ過ぎる。

 

演劇もさっき予約した。行く日と時間は決めていたからさっさと予約したら良かったのだが、心変わりもあるかもしれないし。平家物語の美味しさで決めた。

 

12月のタスクとしては、今週末は大きなイチョウの木に会いに行く。来週末は髪を切って、その次の週末が演劇、その次は未定だが、「空の下でケーキ」が面白いなと思い、倣おうかという算段。徒歩圏内にちょうど良い公園もあるし、仕事も最遅番でちょうど良さげ。

 

土曜日は物理的に動いて日曜日は中で動くかな、という次第。

あんまり一般離れはしたくないみたいな規範がありそうだが、もう無理だから12時間耐久読書とかしてみようとか。いや、それだとあっちの方で書けないか。半分にしとこうか。

 

こういうことが日常的にできるようになればもっとすっきりするのではないかという感じ。

 

立ち読みした本。「聞くことは最高の知性」という帯が付いていた。人間関係の不和は相手の話を聞けないことにあるとか諸々あったが、たしかに人の話を聞くのは凄く頭を使う。自分のモノサシが妨害してくるし、聞くより話したい人の方が多そうだし。かといって、誰にでも同じことになる人の言葉はあまり面白くない(情報にはなる)。その先を聞き出すのは相手の内面にお邪魔しないといけない。問答ではない部分で。

 

あと「書くこと」についての本。文才とか装飾を考えずに自分の為に書き続ければ良いみたいな。なんとなく分かるが、自分がすぐ忘れるとアホとして、残す為に書けば良いというのはちょっと違うと想う。僕は書いたから残っているのではなく、残ったものを書いているだけ。読み返す気もしない。

 

という意味で、僕は「情報」の前の方を大事にしているのかも知れぬ。事後なのか事前なのかは定かでない。こういうモノサシって、端の安定志向の人たちから見れば凄く不安定に捉えらそうだなとふと思う。個人的にはカタチあるモノに都度寄る辺を求めないといけない方が不安定な感じがするが、それぞれ。

 

キルケゴールさんで、青年の幻想と老年の幻想の話があった。人は年を経るだけで何者になるものではないって当たり前のことだが、順番の社会では難しいのかも。家族関係を規定する法律(民法)でも親族で年代が上だと「尊」属で下だと「卑」属という名前が付いている。名付けと存在は別物だとしたところで、社会的な名前としてはこうなっていることは揺るがせないよな。

 

個人の目的と社会の目的。

 

出勤中、銀杏の葉っぱを伐採している業者。まっ黄色ではなく緑の葉っぱを狙っているようで、何故だろうと考えた。まずは、景観の為に黄色を残して緑は除くということ。街並みの自然の景観は都市計画法とか人工的なものだから、綺麗に見えるようにするための政策なのでは。景観は国民の精神衛生に影響するものだから、この目的はありうる。他に何かあるのかな。単にその木が面しているマンションとかからの要望という説は、なんとなくしっくりこない。放っておけば黄色くなるだろうし。

 

結局は意味不明なのだが、これが思考の醍醐味。

 

法には目的があるというのは、検証可能性があることによって、政治権力を移譲した国民が社会契約を更新できるようにするため。目的がない法は単なる独裁者の気分であって、気分を検証しても仕方がない。人より法の方が読みやすいということでもある。

 

人の行動に全て意図を読もうとするのは無為だよなとなったのがこの先。全部意図というか意志をもって人と接している人は居ない。そんなことをしていたら脳がパンクするだろうし(ほんとはそんなことない)。自分の意図が読まれたいのではなく、気分を読んでほしい。この気分が言語化されると理屈になる。

 

検証可能な意志という意味では、「AI時代の法学入門」で、リベット氏の実験があった。体を動かす意志の0、5秒前に脳で信号が起こっているとかなんとか。ここからすれば、人が意志だと思っている行動は、本当は脳が決めているということになる。

 

ただ、この実験って単なる動作、例えば腕を上げるとかだから、何か違くないかとなった。

意志って、動作ではなく行動も含めた存在の方向性では。志向性という領域で言えば意志の余地はこの実験を経ても残っている。心の方向性としての意志。

 

 僕は動作とか単純な行動レベルではリベット氏と同じように人の意志はあんまり関係ないとしている。床から出ようする意志は出たくない心から出てきているものであって、意識すると行動が鈍るし。制限をかけるのはほんとの意志ではなく、学習された行動に付属した評価みたいなものでしかないような。

 

心の方向性としての意志は、特に顕在化するものではない。

人から見えないところで働くもので、可視化されることも難しい。

 

何の本だっけかに引用されていたドストエフスキーさんの地下なんとかで、人には自分にすら語れない言葉が蓄積されている。この辺りが意識できる意志より強い力で心の方向性を決めているのではという仮設。

 

僕は自分と問答しても出てこないであろうことをニッキ媒体で可視化させており、随分と自分が風通し良くなった。僕は不健全な精神性を持っているし、儀礼めいた感動にしらけてしまう(何故か結婚式には感動する)。

 

それでも一生誰にも語れないことはある。なんでそれをしたのかもよく分からないこと。

まぁ自分には語っているのか。

 

僕はこの水準で人を読みたいから、肉体と社会的ペルソナの鎧をまとった人が若干もの足りない。でも、人はどれだけ覆いを取っ払ったところで分かり切ることなんてない。だって、自分すら一生分かることはないのだから。

 

こういうことを書くと厭世的とか悲観的とか考え過ぎとか捉えらえるのだが、考える余地が無くなった楽な世界って、後は滅びを待つだけだと思われる。

 

快楽主義で考えると、僕は分かることに快楽を求めている感はあるが、脳の衝動に従うのもなんだかなぁという気分。脳はきちんと現象を見せてくれない。

 

「脳の中の幽霊」、脳科学的に人は常に幻覚を見ていて、差分で現実として省エネしているという。たしかに見えている世界はどうあっても客観的にはなりえない。

 

惑うのは、なんで世界を客観的に見られる人が多いのかというところ。

こういうのも不健全なのか。

 

ここまで来ると、そろそろ言語的存在も閉じても良いかなとなってくる。

 

僕が気になっている、衝動的に言葉を投げている人は、僕の主観的世界軸で読んでみたい人であって、インターネット世界だから投げている訳でもない。

 

誤解していないのは誰かさんだけ。

 

世界観を統一するためには、僕が読まれることにも価値を置いてなくて、僕を読む意志が気になっているだけで、その意志がインターネット世界における誰でも良いのであれば退散しますわというところ。

 

しばらく日記おやすみするという世界線もあるのか。

 

はい、おやすみなさい。

 

良い感じで生活できてますように。