次元を上げる

 

 

夢に出てきた誰かさん。二日酔いの様相で、離れた間に良い感じに生きていることの報告があった。実際にも良い生活ができていると良いのだが。もう1人出てきたがまだ離れてないので言及はしない。

 

夢の中の風景がかなり鮮明になっているのは僕の現実が鮮明になっているからと思う。その後の別シーンで、小中学校のOBとして出向いてやらかすみたいなことがあり、かなり近代的になっていた。現実ではもう廃校になっているのに。あと、そういやこんな人おったなとか。

 

 

出勤の道すがら。緑のイチョウは完全になくなっていた。別に寂しさはない。幹だって綺麗だし。それとは別に、なにやら「遠慮している」という観念。何に。人とか世界にとかを当てはめて見ても、突き詰めれば「自分に」ということになる。まだまだ自分に遠慮している。

 

これは別にもっと負荷をかけても良いとか、甘やかさなくても良いとかではなくて、もっと思考・試行の余地があるということ。あと、好きなことをもっと突発的にやっても良い。

 

人は言語で考えるとシリアル思考になって視野が狭まるというのが、「1日10分でスピード脳になる」。さらっと一周した。やっぱりそうして良いのだというか、人間にはそれくらいの能力はあるはなとすっきりした。本は2冊同時に読めとか言葉で読むのではなくイメージで読むのだとか、1度に10個のことを考えるとか。

 

これをすることで頭の余地が増えるって逆説的だが、普通に昔はやっていたのだよな。ここまでではないにしろ。ぱっと当たりがつくとか、テレビと教科書を同時に流し見て覚えるとか。

 

人間は三次元の存在だから1つの場所にしか物理的に居られないが、頭はもっと高次だから、何処にでもどの時間でも存在することができるというのは、読む前に実践していた。今も書きながら、明日の御所とか、昔の小学校の下にあった風車とか水車のとこにも宇宙の起こりにも居られる。

 

このスケール感からすると現実の自分に遠慮し過ぎちゃうかという話。何かしたいならすぐすれば良いし、誰かに会いたいなら会いに行けば良い。1人カラオケ、1人焼肉、なんでもし放題。ダーツは、もう良いか。人に嫌われても良いとも思うべき。嫌われて周回軌道上から離れた方が気楽にその人のことを想える。

 

古参の先輩は自然が好きらしく、どこか行きましたかって聞こうという機会をうかがっていた。たまたまそういう雑談が起こり、聞いてみたら土日になると腰が重くて行けないのだとか。やっぱりそういう外からの抑圧ってあるのだな。自分が外に出ることを許していないという感じもするが。

 

そういえば、我が家でも今朝ちょっとだけ世界が揺れたが、人の意識が遂に溢れたのかと不謹慎なことを想っていた。人の意識も電気信号の波で、1人1人では世界を動かすには至らない。でもこれが何千万単位になると海が割れることもありうるのでは。個人の意識はその人の現実を変えるのだから、束ねたら現実的になる。音楽ライブで一体感ないし陶酔感を求めるのもそういうことなのでは。

 

人が居られる因果はあくまで時間の直線上だが意識はもっと螺旋を巻いている。

 

なんなのだろうな、この世界の不可思議さ。

 

あぁ平家物語でも不思議とか遠慮とか出てきた。平清盛が独裁を極めたみたいなところで、あまりいい意味ではなかったが、まぁ世界ってそういうものだ。意識が意図していることが現実として現われる。

 

思考の話。なんとかさんの思考のフレームとして、「データ(証拠)」「ワラント(根拠)」、「クレーム(主張)」というのがあるらしい。たしかに、検証可能性で言えば考えたと言えるのはこれが全て。これを3つ同時に考えるのが良いとか。

 

相手の主張を聞くとき、6つの反論を考えるというのが著者の手法らしいが、本気で議論をして自分の主張を壊せる人に対してはこれくらいが礼儀なのかもと想う。反論されること自体が人格攻撃されているとみなす日本人気質だとなかなか難しいが、自分の中ではやってみても良いかと思った。

 

ただ、僕の思考って割ともっと抽象的なところにあって、そもそもデータがきちんと確立されていることなんてあるのかとか、主張したいこともないしなという感じでうまく嵌らない。

 

時間軸を三次元から離して未来のこともイメージするというのは採り入れたい。なんとなく未知の方が楽しいという制限をかけていたから。でも、別にイメージと一致しても完全に一致することはないし、遠慮しなくて良い。

 

宵顔さんが僕と会ってくれないのであれば、会いたい(会っても良い)人になれば良いだけ。どうなったらそうなるのか知らないが、僕もここだけに傾注して生きている訳でもなし。

 

未来のイメージ化は、明日自分がどれだけ楽しんでいるかということで別に逃避ではない。どうせ明日もしんどいのだというイメージは、それを現実にしてしまう。抽象的に思考できるようになれば現実に囚われなくなるというのは確かにある。物体とは別のところで生きるようになる。

 

かといって、具体的な関係を大事にしないとかでもない。

いや、僕を具体的な意味で置いておかねばと思っている人は皆無だと思うが、それで離れたとしても、特に問題はない。

 

抽象的に生きられるようになるかどうかには色々な道筋があるみたい。スピリチュアル系で修行するとか、啓発系の脳とか意識をどうにかするとか。

 

僕の主観的世界の話だと、結局は自分を赦すのが一番手っ取り早いのではと思った。世界を赦せないのは、自分が見えている世界の窮屈さのことであって、その窮屈さは自分の視野が決めている。

 

ここは、他人に赦されたところでどうしようもない。ずっとシコリが残る。他人から

それを承認することはできるが、それは対処療法でしかなく根治はできない。

 

自分の存在を独立的に赦すって、割と社会の摂理から外れている。

どんな属性から外れても自分を自分で承認する勇気。

 

この勇気があるのであれば具体的な人に拒否されても問題ない気がするが、遠慮してしまっている不思議。真剣な言葉だったら届くのかというのも、どうなのだろう。

 

検証しないと分からないな。

 

人で検証するって人でなしだが、普通の人間的営みな気もする。

否定するのではなく、僕の主観的世界に存在しうる人なのかという検証だから良いのか。?

 

 

まだまだ生きられる。

 

 

おやすみなさい。

 

幸がありますように。