外からのルール

 

 

変な夢を見た。二代前には亡くした伴侶の足を接合した人が居て云々。確かに祖母の祖母とか知らないし、子供ができても孫の孫も知ることはない。他にも従兄に寝嘔吐をかまされるとか、なんだろう。親類を大事にしていないみたいな無意識の抵抗を感じる。

 

確かに一般的な意味ではあんまり大事にはしてない気がするが、大事にしているというポーズを取っていないだけで、世界に幸あれの中には僕以外の例外は無い訳で。

 

平家物語の影響もあるのか。これも血族の物語で、今度観る演劇もここを問題としてそうな。まだ5男は出てこないのだが、架空の5男であればそれはそれで美味しそう。

 

ぎょっとするというか、まぁそうかとなったのが、「22,3歳の女盛りを過ぎたが美しい人」みたいな表現。今で言う美魔女みたいな表現だろうか。今であればこういう表現自体不適切に当たりそう。としても、一応出産適齢期というのはある訳で、そこのルートに乗れるようなパートナー観は残しておかないといけないだろうし。

 

そろそろ婚姻制度の捉え方も根本的に変えないといけないような。現実のパートナー観と一致ができなくなってきている。僕自体はパートナー観に対しては無色だが、使い勝手が悪いと思う。

 

もちろん旧来の家族観としての出産を目的とするパートナーを法的に保護するというは公益上ありうる。国民は国家の構成要素でもあるし、資産(変な言い方だが)でもある。ただ、ここをベースにパートナーを考えると、個人の尊重としての幸福追求権(憲法13条)と衝突するし、今の婚姻関係の枠には出産を求めない、必要としない夫婦関係も含まれている。

 

なので、僕としてはパートナーとしてのカタログの1つという位置づけで子をなすことに優遇はあっても良いだろうなという感じ。優遇されることが優越的地位にあることではないというのは報知すべきと思う。難しいだろうけど。

 

僕の拙い見識だと、婚姻制度の本質は男女の素朴な結合の法的承認というより、複数の人をまとめて扱うことで行政上の便宜があることだと考えている。そうすると、このパートナーは別に異性である必然性はない。子をなすことに引っ張られると、どうしても男女になるが、時代遅れの観念だと思われる。一応同性カップルが法的に繋がるために養子制度を流用する抜け道もあるが、これって同い年だったらできないのでは(要調査)。

 

ここからすると、同性婚を法的に承認しても社会的な混乱はあるとしても制度が定着すれば慣れるだろうし、行政上のコストはカットされるのでは。ただ、配偶者控除の扱いは難しくなる気がする。税法は未開拓の領域だから制度趣旨とか調べてみないとなんとも。

 

1人は家に入って専業で家事をこなし1人は専業で仕事をするという観念も家督制度の歴史の遺物なような気もする。いや、そういう家族観があること自体を否定しているのではなく、これを国家が承認し続ける政策的な妥当性があるのかどうかという話。

 

こういうことを考えているのは、戸籍上の性別変更をする際の要件に「未成年の子が居ないこと」があることが憲法違反なのではないかという裁判の記事を見かけたというのもある。

 

家族秩序が崩壊するとかの理由で棄却されたよう。ただ、ある裁判官が反対意見で自己同一性を保つ必要性は変わらなくて、親子関係に影響を及ぼしかねないという根拠は漠然とした懸念に過ぎないのではと書いている。この裁判官、もともと行政法学者で、書いた本いくつか読んだことがある。

 

家族法の改革は既得権益(判断したり法律を作ったりする人のほとんどが旧来の家族観で生きていること)の兼ね合いもあり難しいだろうな。ただ、あと何十年かですぐ変わりそうな気もする。

 

昨日の日記で、僕は三次元世界をないがしろにしてないか、と思ったのだが、いやきちんと三次元の現実のことも考えている。いやいや、そもそも自分の現実以外のことを考えることじたいが気違いじみているのではないか。

 

三次元と書くからややこしい。以下、現実に表記を統一。

 

現実的人間関係の大事さと、僕が人を大事と想うことは同じ言葉で別の意味なのだろうなという考察。もちろん、どちらも自分の為にではある。ただ、これがホームなのかアウェイなのかの違い。

 

ホームとアウェイの話は、「10分でスピード脳」にあった。抽象的な思考はリラックス状態のホームの時に起こる(危険を感じないとき)。あと、細胞の話でも、細胞は防衛機能と、成長・増殖機能があり、防衛機能が働いているときは成長・増殖にエネルギーを使えないのだとか。

 

これ、現実的人間関係がホームだと思うじゃん?

 

僕はそうは思えない。家族ほど気を遣わないといけないとか、近くあればあるほど、自分を攻撃されないように過ごす必要がある。僕があまりに現実に対して悲観しているという説もあるが、近しい人と居るときの緩みは脳の緩みではなく、体の緩みであって、この日記で書かれているような思考が働くことはなかったのだよな。

 

僕の頭の中は基本的にちゃらんぽらんで現実に即していないことばかり考えており、そもそも現実自体を疑っている。かといって、世界が美しく見えるとか誰かが目に留まるとかは現実的出来事だし、この現実は大事にしている。

 

こう考えると、僕に対してホーム気分で居られるように体を緩めるのか。

知らんけど。

 

ともあれ、現実的人間関係にアウェイ感があるのがなんとなく分かった。僕は今のところお友達とか友人は居るが、現実的に恒常的に時間を使い合うような輪はない。

 

複数人数が寄り集まるということには必ず目的がある。そこで暖を取るという意味では職場なりコミュニティなりクラスタなり全部同じこと。

 

で、この輪の本質とか前提条件として、ホームに対するアウェイがある。仲間内の外の存在が常に意識されているという意味では、防衛機能が優位になっている。そこに居れば守られるし、外は疎外して良いという規範もあるかもしれない。

 

これが「現実」だとしたら、僕に現実感は無くてええな。

1人で居た方がホーム気分である。

 

とは別に、現実で接してみたい人もいる。僕のホームの領域は全世界(言い過ぎ)だから、自分と共同生活してくれるかもしれないみたいな目的はない。そういう世界線があればちょっと楽しそうな人が1人、2人。

 

現実で一番大事なことは、親しみとか安全とか安心とかではなく、あくまで三次元上の時間だから、誘い文句としては、「お暇なら飲みましょう」ではなく、僕と現実的に接するために「時間を作る意志はありますか」になる。僕はこの意志があるから誘っている訳です。

 

これを考え過ぎと評するような人とは関わらないから問題はない。

 

現実生活を大事とすることについて、たぶんやり直しがきかないという時間の1回性の観念があると思われるが、これも何か語弊がありそうな。時間の流れを外からの既定値にするからこうなるのであって、自分の時間はコントロール可能だもの。

 

クロックタイムって言うらしい。自分の中の時間を凝縮する。

何かをするタスクにかかる時間を短くするように意識することで、結果的に時間が増えるというやつ。

 

相対性理論が時間は絶対的指標ではないと言っている。

自分の残り時間を想うくらいなら、今の時間をどうするかを見た方が良い。

 

縛りプレイで生きなくても良いと思うが、この縛りがアイデンティティと直結している人が多い。

 

この世界の極致が、承認されることが良いとすること。

承認に紛れていると、承認されないと自分があやふやになるという自分とは別の世界観に依ってしまう。

 

原動力を外に依存するのは非効率だと想うのだが。

 

 

こういう話をしたい訳でもなく、なんか皆可愛いなと思うだけ。

 

いやこれも何の話や。

 

強制終了。

 

おやすみなさい。

 

幸がありますように。