終わりの始まり

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イチョウ並木を撮ってみたのだが思いのほか葉の間がスカスカで僕が見ている風景とは乖離している。たぶん光の反射の捉え方が視覚とカメラでは違うのだろうな。カメラの方がきちんとしているのだろうが、きちんとしたありきたりな風景を貼るのもいかがなものかと思い、断念。前を歩いている女性とかこの地区の名前が付いた看板が写り込んでいるとかもある。

 

夢ではマスク越しの接吻という変な性癖のシーン。夢に出てくるということは、僕の中では終わりが近いのだろうけど、一体何が終わるのだろうな。言い換えれば、何が始まるのだろう。

 

さておき。

 

毎週のことだが、週の半ばを過ぎると水曜日を落っことした気分になる。水曜日だと思っていた。まだ水曜日かみたいな時間の緩慢性ではなく、うわーもう終わってしまうという感じ。社畜でもなんでもないのだか、今日の仕事時間がもうすぐ終わってしまうって本気で想った。もう木曜日が終わってしまった。

 

とか言いつつ、振り返るときちんと毎日生きているし残っている。人間関係の存在やカエデの美などを見ていた。

 

先月、レンタルサーバー料金を分割でなく一括で払ってしまったこともあり、今月はあまり本を買わないようにしようと思っていた。小説週1くらいなら1日200円くらいだから問題ない。とはいえ、出会いは逃してはいけない。

 

画像の本。邦訳は「時間が終わるまで」 

タイトル即買いでも良かった。なんとなく立ち読みではしがきを読んでいたら鳥肌が立ちまくる。終わりを悲観する本ではなく、諸々の人間的営みとしての「終わり」の創設を科学者が語る本。数理系の人で、宇宙の話もあるし、大好物のアラカルト感。

 

本のご飯の前に、今日のメインのおかずを割り込ませる。

食材は鶏肉と白菜と人参。味に変化をつけようと、実家から送られてきたコーンスープの素で味を決めて、ウスターソースとケチャップで整えた。シチュー風味で滅茶苦茶美味しい。物理的おかずはお裾分けできないのが残念である。

 

戻って、人が宗教、哲学、科学を営むことの根源には、死への根源的怖れがあるとのこと。なるほど、と頭の中で手を打つ。人間以外の生物も生きることはできるし実際生きているが、人間だけが、知性で終わりとしての死を認識できる。これをどうにかしようとする意味で言えば、ほとんどの人間の営みにはこの原動力がありそうな。

 

ここから言えば、宇宙を捉えようとしたのも、人間の生より遥かにスケールが大きいもの見て怖れを和らげるみたいなことがあるのかも。面白かったのが、作者が宇宙史を研究していて宇宙時間からすれば人類史は刹那に等しい。死を思考できる生命体も見渡す限り人間しかいないというところから、今自分が生きていることに素朴に感謝するようになったという下り。世界と自分が一致することは僕の世界だけのことではないらしい。

 

感謝は自分が何かによって生かされていることに対してではなく、「自分がいまここに在ること」が対象なのが本来。人スケールであれば誰かへの感謝になるだろうが、そこの因果関係もあくまで人間が認知できる範囲のことでしかない。

 

時間自体が創作物だもの。

 

エントロピーと進化を主人公として宇宙の始まりから人間の起こり、はては人間の終わりみたいなところまで語られるとのこと。買うとき2600円はなかなかの出費と思った、今やお値段で読めるとはありがたいということになっている。言葉は本来円で換算できるものではない。

 

別の立ち読みで、思想家のフェアの中に人の実存の話があってこれもなるほど。

自分が自分である自我を実存として人は生きているが、では、自我が芽生える前の自分は自分ではないのか。3,4歳の自分で思い出せないところに人の実存があるのだという説。

 

確かに、自我が芽生えた後のトラウマはしようと思えば可視化できるし、なんなら調整もできるという意味で言えばこれでも自己としては表皮で、どうあっても可視化できないところから生きてきている訳だし、生物学の本からすると、人は胎内に居るときから母体を外的環境として学習しているらしいし。

 

昨日の承認が必要とならない自分とも通じていて、都合が良過ぎる感。ついでに、カントさんが純粋理性で書いているアプリオリ(先験的)な認識もこの辺りにあるのかもな。これは当時から思っていたが。

 

 

思想家の本では、この実存には負の感情はないということで、そんなことあるかいやってなりそうだが、いやはや僕の実感としてはそういうのありえるなという感。

 

少し遡って、ふと、「僕はなりたかった自分になりつつある」というイメージが浮かんだ。あくまでイメージだから細かく書くことはできない。これだけ書き続けてきてなんだが、僕の世界にはあんまり言葉がないんだよな。他の人にも可視できるように言葉を使っているだけ。

 

僕の実感としては実存としての人の最初は完全に無力だから世界に自分を委ねるしかないし、吸収するしかない。その頃には感情もないから喜怒哀楽もない。感情として捉えるのは環境としての周りの人であって、当人は無色。

 

ここで、今日読み終わった「愛なき世界」も参加する。

結局恋愛沙汰は全くなかった。物語の結論として、「知りたいと思うことがすなわち愛なんじゃないすか」ということになって、たしかに愛の真理っぽい。

 

繋げると、人の最初は世界を知りたいという動きしかなく、世界を受け入れているという意味で、愛の存在であるということ。知って怒ることが出てくるのは自我が発明されてきた後で世界の予想と実際が乖離したときだし、悲しみもそれがそうだと名前を知った後。

 

性善説性悪説かという話もここからすればだいぶズレている。

 

でも、別に実存も自我も、出発点が違うだけのもともとはこうなっているというだけであり、人はいつでも修正できる。だって、思考できるのだから。

 

僕がなりたかった自分は、思考停止しない、だったのかも。

この自分は停止している人と一緒に居たらなれない。いや、自分の世界に人を巻き込まずに存在できる人ならあるいは。

 

僕の誤った読解だったのかもしれないけど、もう充分知っている、これ以上知らなくても良くなることが関係の安定みたいなモノサシがあるのではと捉えていて、とっても窮屈だった。素朴に考えるとお互いをもう知りたくなくなったらむしろ関係の終わりでは。

 

僕の関係がよろしくなかっただけか。

今後は善処しよう。というか、僕が世界に対して不誠実だっただけのような気もする。

 

あと、何かキモチワルイなということがある。嬉しさをなんで実際の当人に宛てないで世界から見えるところに置くのか。僕の中のお裾分けと同じようなものなのかと思うが、そうすると、自分のことも下げているような感じがある。

 

いや、この切り分けはとても難しい。

 

僕は世界に対する嬉しさと人に対する嬉しさはまぁまぁ切り分けているはず。できていないこともあるかもしれない。

 

別に細かいことはどうでも良くて、嬉しさ楽しさがほんとに自分の中から起こっているのかどうかを内観することが大事。

 

はい、おやすみなさい。

 

時間が終わるまで実存でありますように。