「構わない」の意味の相反性。距離感のちょうど良さ。

 

ノルウェイの森(音楽の方)を聴いていたら、なんとなく洋楽ブームが起こり映画版デスノートの主題歌などを聴く。

 

 

「性愛と資本主義」と、「ノルウェイの森」(本の方)の組み合わせが思いの外強力なのか、諸々の孤独が内心に渦巻いていた。かといって、声色も普通だし、仕事も普通にこなす。あくまで中のことであり、物的な僕には特に影響はない。

 

メディアとしての電話とかインターネットで、人の身体性が拡張したということを昨日書いたが、だからこそ生身が大事となっている訳でもなく、むしろ身体性の欠如によってより宇宙が相対化しているのだろうな。体調不良にならないと自分の身体が意識されないというのは、普段は身体と同一化しているのではなく、身体を等閑にして自己意識に実存を捉えているから。別に悪いことでもないけど、これだと運動としての単一性には届かない。

 

だって、意識は可能性もたやすく実存に含んでしまう。しようとかしたいとか。

ものとしての実存には可能性も含まれるが、意識がそれを志向しているだけであれば、可能性には成らない。志向性はほんとうにありうるかが問題。思考はもっと外に拡がって良いが。

 

素朴な語彙は抽象的過ぎて誰かと話せる気がしない。

ここが人と会話して発展することはなかろうし。

 

自由意志がほんとにあるか問題。

これって素朴に信じられているだけで、専門的には解明されていない。だから意志とか目的とかがなんとなくうさんくさいと個人的には想うのだが、「外とのこと」と絞れば、別にこういう概念は合っていい。

 

説明のための創作物であって、ほんとうの存在の動きとは不一致。これを想ったのは、自由意志で継続できる範囲はあくまで他人が関わらないところで、関わりの中ではこういう意味の意志は貫徹できないから。どれだけラブレターを送り続けたいとしていても相手が不要だと反応するのであれば、相手を想うが故に意志は停止に向かう。

 

関わりとは別に、何かをしようとすると意識した時の0.5秒前に脳は指導しているという脳科学の観測で言っても、素朴な意識的衝動は意志でコントロールされていない。

 

人は自分が分かるような世界を求めるから、条件付けとか行動には動機があるとかの説明があると安心できる。この意味で、誰かを安心させるために分かるように説明できることは大事。他人には説明するくらいしかできないし。

 

ただ、これを対自分でするのはどうなのだ。自分の動きは逐一観測しようと意識すればできる訳で、別に他人扱いする必要もないし、むしろ他人への説明として自分を動かすと不一致が起こるのではという感じ。

 

意志と説明される現象は選択とは違う。選択は意識的な反射神経によるが、意志は時間的に幅がある。ここに努力とか妥協とかやる気とか、現象を説明する概念を持ち込むと変なことにならないか。ただ続けるようにしたいなら、そういうことになるように現実を調えればいいだけで、信念みたいなものも要らない。

 

個人的に人は別に義務で動いている訳でもないし、なんなら意志で動いている訳でもないと想っている。だいたいは恒常性としての惰性で生きていて、精神の内部はそんなに動かない。人の世界は思考でできているというのはこういう下りなら分かる。

 

要は、自分を語るときに説明概念を用いても良いが、自分が動くときにそれを持ってこなくても良いというだけ。自分を他人として扱わなくて良い。

 

まぁ感覚的なものだからなんとも言えなないところもある。

 

 

そういえば、「性愛と資本主義」で、コミュニケーションの話があった。AとBの間でコミュニケーションが起こるとき、AはBの選択を踏まえて選択するし、Bも然りみたいな。ゲーム理論みたい。ここに意志が貫徹できるはずがない。意志を貫徹して人と関われる人が居るなら、相手とコミュニケイトしなくても良いとしている人。

 

自分が居ないと思ってきたのは、この関係における選択において特に選ぶことがなかったから。この人を確保したいという動きもないが、単に好意はある。でも世の中では好意の行動化はその人を確保したいとなる。別に合意があればそれで良いし、特に何も想わない。

 

ただ、この合意も曲者で、いつまで続くかわからないもの。

お祈りが嬉しいと言われたところで恒常的なものとは限らないし、これは法的な承認がある関係でも変わらない。どこかで自分も相手も変わらないと決めていないとできないこと。

 

正直であること。

 

ノルウェイの森」で、外の世界での人は必ずしも正直に開いていないというフレーズがあった。何を隠しているのだろう。いや、僕も開いていないところはあるのか。共感できないから、他人の感情に雑い節がある。体調不良の恋人さんとか、これから出勤する恋人さんとかに親身にはなれない歴史。今ならもっと上手くできるが、同情して欲しい人とはお付き合いできないと思う。感情は当人のものであって、他人に譲渡できるものでもないし、共有できるでもない。かろうじて共鳴くらい。

 

同情できる人は感情が豊かでもないのかも。

 

ここで語られる回復の概念も面白い。

治療してどうにかできるものではなく、自分に戻る感。

 

この意味で捉えるなら、他人の存在は自分と平等な存在ではなく自分を捉える契機になる。

 

この感覚で生きたとき、なんだか人っぽい人が出てくる。

だからとて、物理的触れたいとかでもないが。

 

はい。

 

おやすみなさい。

 

別に書きたいから書いている訳でもない人。

 

良い夢を。