無関係

 

 

今月はこのシフト最後の日。朝イチョウ並木を通る手前、昨日写り込んでいた女性が建物から出てきたのを見た。なんで分かるのかというとたぶん動きの感じとか体格とか。昨日より2分程遅かったからか、小走りで前を駆けて行った。今月はシフト上もう見かけることはないだろうな。

 

なんの効用もなさそうな人(目の保養になるのかもマスクに隠れて分からない)が残っているのは僕にとっては割と普通のことで、この機能が活発化している。大事なことほど残っているというなんてことは全くないと認識したことによる。ほんとに人に任意に記憶できる機能があるとすれば、誰しも自在に超人になれるし、人間の頭は覚えなさいって言って覚えておけるほどお利口さんではない。

 

恋愛感情すら不純物だったのかもしれない。

というか、そういう名前を付ける必要がなかったという感じ。

 

なりたかった自分の中には、人の世界にちょっかいを出すことは含まれない。

気分でコメントをすることが「ちょっかい」にあたるのかというはどうなのだろう。僕の世界の中でコメントしたくなったらしてしまう。

 

どうでも良いが、まだ2つしか記事を上げてないサイト。どの国からアクセスされたか分かる機能があるのだが、カナダから何回かアクセスがあって何ぞやとなった。一応英語も調べて、造語にしかならんなという組み合わせにしたつもりだが、検索するような酔狂な人が居たのだろうか。

 

仕事の話。新人の頃、すげぇ怒られたお客さんに当たり、こちらは確認しているだけなのに、自分が嘘ついていると責められているように思い込んでいる感じ。沸点が低い人って、自分の認識とか記憶力が完全に正しいというバイアスがあるのだろうかって考えていた。けど、今書いていると、逆か。そこしか守るものがないから、揺るがされそうになると不安になって世界に当たってしまう。

 

自分が正しい(としたい)、だからこれを揺るがすものは誤っている。この差分は悪である。悪に対しては怒りを投げて良い、みたいな。エゴと世界の差こそが自分の盲点だと思うのだが。まぁ今回お怒りは受けてない。凄い言い方するなというフレーズはあった。たぶん賢い人なのだろうと思う。使い方を誤っている気がしないでもない。

 

 

最初に怒られたとき、自分は朗らかに接したいのに、話が分からない人のせいでそうでは居られなくなるとか言っていたな。他責的世界観。

 

別にこの人に対して何の感情もない。

 

感情として名付けられているものが自分にはもともとあんまりないのだろうなという実感の1局面だから精神疾患とかではないはず。

 

感情の名付けがなくても抑揚があるということで割と内心にやにやしながら毎日過ごしているし。感情で塗り絵をしなくて良い自分は透明でも動いている。

 

自我が起こる前の実存の話は、おそらくいまでないと読めなかった。

この実存には認識されるという意識がないということ。僕が自分の文章をたくさん読まれるとぎょっとしてしまうのも、自分のことが知られて嬉しいという気が全く起こらないのも、そもそもの実存は認識することしかできなかったからという仮説に繋がる。その頃には認識されるべき自己がないのだから、相手を認識して相手に合わせて反応するくらいしかない。

 

僕の最初の記憶は何歳なのか定かではないが、3、4歳以降であるのは確か。

幼稚園の大の方のトイレがぼっとんでやたら怖かったのはあるな。自分ちのトイレもそうだったのに。いやでもこれ小学生時と混同されているような感じもある。後付けによる捏造。

 

世界に対する遠慮が始まったのはもっと後の方。

最初の頃は人を意識せずに世界だけを意識して生きていた。その頃には特に自我を必要としてなかったなぁ。自我がないといけないというのが学習されてきたのが思春期の頃辺りか。

 

自意識はずっとあった。

 

自我と自意識は全然別のもので、自我は自分のプロフィール情報ないしモノサシ。自意識は素朴に世界を生きている自分そのもの。

 

自我で生きると都合が問題になるが、自意識で生きると都合はどうでも良くなる。

 

やっとニュートラルになってきたなというのが、自我の重みから解放されたのと、自分の時間をまぁまぁ自在に行き来できるようになってきたこと。そうだ、幼稚園時のサザエさんみたいな髪型をしていた先生は富永先生だった。

 

自分の中に残っていることを忘れても良い、寧ろ忘れるものなのだという規範は僕にはない。ちなみに規範というのは法律学で良く出てくる単語で、「そういうものであるべき基準ないしルール」と捉えている。主観よりは高次だが真理ではない。

 

遠慮を止めた後の世界はどうなるのだろうな。

 

誰かさんが貴方は足踏みしているみたいなことを言ってくれて、当時はさっぱりだったが、今はなんとなく分かってきた。世界がほんと鮮明過ぎる。

 

記憶力ではない。って、中学生時から思っていた。

お勉強ごととして教科書読んでなかったし。この観念のせいでだいぶ迂回することになったな。問題無い。

 

この感覚に戻って来られたのは読書を続けてきたからなのか。

本の世界は自分と無関係の世界ではない。読み取りは自分の読め方に依存する。

 

これって、人が人を捉える上限でもある。

自我から離れたところで人を捉えるようになることって誰も教えてくれない。

 

人を語るときに自分が先にくるのはそういうこと。

 

やれやれ。

 

新刊読書枠は、なんとなく軽めのラノベ。色味が鮮やかだったもので。虹色の夢と灰色の現実の対比。灰色の現実的自分。主人公でない自分。

 

冒頭文で鳥肌が立った。

 

 

「時間の終わりまで」は蒸気機関エントロピーの話。産業革命くらいは知識として知っていても、それが科学的に何をもたらしたかを分かっている人はあんまり居ない。僕も含め。

 

世界観を再構成している。

人間関係も然り。僕は僕のことを知りたいと意志してくれる人と整った関係した方が良い。宵顔さんとの睦言的夢は同居人さんとセットだったし。

 

でも、僕は自分の拠り所としての人は求めてないし、僕を拠り所とする人も求めていない。ここのズレなんだよな、結局。

 

まぁ、何か起こるのであれば起こるだろうし、どうでも良い。

 

 

では。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。