バランス

 

 

 

動物の動画をいくつか見て日記時間に入るのがルーティン。柴犬、猫、カワウソ。カワウソの鳴き声は意外と賑やか。カワウソカフェがあったら音量が凄そうだ。

 

今宵の月は卵みたいな形だなと、卵を買うことを思い出した。明日の朝ごはんは竹輪とレタスと冷凍ご飯で卵雑炊にしよう。観劇前の腹ごしらえ。

 

仕事がほんとに一瞬で終わって自発的に時間を流しているのではなく、師走の流れに乗っているのではという感じがなきにしもあらず。肌に感じる寒さが嬉しい。この季節ならではのもの。

 

起きた後に眠いのは寝不足なのではなくよく寝たからではないか。寝不足は午後に効いてくる。

 

さておき。

 

出勤すると、上司2人が今はこの職場に居ない人達の想い出を話しあっていた。微笑ましくもあり、無責任でもあり。女性の上司の昔の同僚をたまたま見かけて認識できる目は少し自分と近いものを感じた。僕もいつか思い出として語られるのだろうな。おそらくよく分からない人だったとかそんなの。

 

僕はこういう文脈では思い出されたくない。僕のことを思い出すくらいなら今に遣ってくだされと想う。これって僕の肉体が現実から退場したときでも同じ。僕の存在は別に誰かにとっての出来事でもないし。

 

この切り離しは我ながら個人的に凄く効果的だった。いちいち自分の中で出来事(現実)・非現実を分けなくて良いし、決まっている区別に囚われなくなった。世界を読むことに傾いて良い。自分を生きていれば、誰の評価とも無関係で、アイデンティティも特に必要ない。

 

なんなら交信も特に欲していないのかも。

発信できる時点で感謝。

 

「読むこと」に対する記事を読んで思わずコメントしてしまった。ファンレターみたいなものだから返ってくるとは思っていないし、返ってくるようには書いていないはず。

 

読むことが「生きること」とは別軸に置かれているような、なんとなく贅沢品みたいに捉えられているように読めた。たしかに、なんとなく書物より実地の方が重いみたいな風潮はある。でも命の起こりを生物学の本で読むと、命は読むことから始まっている。胎児の段階で、母親が言い争っているとその空気を読んで同調するのだとか、母親の精神状態もその後の精神的な発育に影響するとか。

 

文章を読むこととは違うとなりそうだが、言葉だって自分に同期しないと読めないし、読むことは自分の外にある出来事ではない。僕の中では生きることがすなわち読むことだから、言葉も含めて一生読み続けるのだろうなという感じ。

 

言葉を読まない人でも毎日毎瞬世界を読みながら生きている。

出来事は流れていくものでしかないのに、そこに意味を付けるということ=読むことでは。

 

ここは難しいので、すっきり言語化せずに課題として鍋に入れておく。

 

さっき「本の読み方」を発見した。いまさら何を言っているのだという感じだが、自分の中では世紀の発明クラス。

 

人生という時間制限の中でなるべくたくさん読みたいから速く読むことを意識している。なるべく焦点を移動させて文字を追えるようにならねばという眼球の筋力を使っていた。でも、文字は追うものではなかった。

 

完全に習慣というか音読の弊害。視点の動きは一文字ずつを追わなくても視界にその文字は入っているのだから、自分の視界が捉える範囲で1行のうち2回くらいの動きで良い。視点の動きを気にしなくなると、直接内容がイメージ化される。見るに近い。

 

もともと人は言葉を厳密に文法とか単語の意味を把握した上で使っている訳でもなく、これは発話でも文章でもあまり変わらない。日本語が厳密に表音記号はないことによると思うが精確なところは知らない。

 

だとすると、人は言葉を読むときには1つ1つの文字を厳密におって意味を展開しているのではなく、意味をイメージとして捉えている。早く読めるということは、文をまとまりで見られるようになるということ。これは現実の膨大な情報をまとまりとして無意識が処理していることと同じことなのではという同期。一言一句を丁寧に読んでも、頭の中にイメージが残らないのであればあんまり読んでいない。

 

この読み方、目は疲れないが見開くから乾く。

 

世界って新鮮だ。

読解力もこういう話なのか。誰かの文章をきちんと読み取れている気が全然しなかったのも、テキストを追おうとしていたからなのかも。

 

いや、この話、全然通じないと思うわ。

別に通じなくても良いと思うのがおかしいのかもしれない。

 

ただ、世界はどんどん透明になっている。

「時間が終わるまで」という宇宙が始まってから終わるまでを科学的に書いている本でも、現象を透明にするためには、諸々の分野を総動員しなくてはという話があった。たしかに。

 

新刊小説枠の疑似記憶の話。忘れたり追加したりするのは良いけれど、これって人格が記憶に左右されないというコンセプトが前提で、よくよく考えると何やらおかしい。何か潤った出来事があれば、当人の性格は動くだろうし、記憶だけ都合良く改変されるって、偽薬っぽい感じがある。意識できる記憶しか操作されていなくて、もともとのその出来事を通した潜在意識には全く影響してなさげ。

 

自分の人格には来歴がなく今でもともと完成型というモノサシ。

自分が自分だけでできあがっているような唯我独尊。

 

なんか色々あるのだが、書ける気がしない。

エントロピーとか不作為犯とか、前提知識がないとどうしようもないところを1からって大変。これは、自分のことを語るのも同じことだから、単語って偉大だなと思う。

 

書けない訳ではなく、書くと文字量がという話。

頭が活性化するとこういうことになる。1つの流れに収拾できない。

 

もともと無目的に書いているのがニッキ。

 

そうそう、なんだか変に引っかかる変人たち。

僕はスキに傾注していないと表明しているのに毎回律儀にチェックしてくれるとか、僕の文章を読んでいる感じで書いているとか。下心を感じないから余計に変人度が高い。

 

いや、あるのだったらそれはそれで面白いですが。

 

僕はあまり社会的な内輪関係に重きを置いていないし、今の自分だとその人のことも放任主義でやりそうだが、人を読もうとすることは止めない。止めるのが近いことだという風潮に従ってみたらつまらなくてしょうがなかった。存在は動くのが当たり前。

 

ただ、自分に時計時間を使ってくれることがすなわち好意の証明だと思う人は駄目かも。モノサシが雑過ぎるので。一緒に居る時空が長いからってかまけてお互いを読もうとすることをやめたら化石になる。

 

何の口説き文句なのか。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。