たまたま

 

 

 

「世の中には現実を楽しむために飲むよっぱらいと、現実を忘れるために飲む酔っぱらいがいる。父親は後者だった。」                

by「君の話」

 

自分の父親も後者だった。忘れるために飲んで、思い出すことすらできなくなった訳だが、これはこれで本望だったのかもしれない。

 

僕はどちらでもない模様。楽しさにお酒は特に連動していない。相方の上司が飲み会を復活させたいと仰っていた。僕が行った最後の飲み会が2年前の職場の忘年会。僕は別に飲めなくはないし、この職場での飲み会なら行きたくないということはない。ただ、どっちでも良い感もある。知らない情報が増えたとてきっと微々たるものだし、情報を人としなくなったから、何かを知るという衝動がない。空間が変わったときのその人というのは面として気になるが、或る面もほぼ無限だろうし。

 

 

さておき。

 

いつケーキを食べるのかを調べた。どうやら我が家は本流だったらしい。その頃の一日の区切りが日没から次の日没までとのことで、24日の日が沈んだ時点で25日の始まりになる。たしかに、クリスマスが発祥した時代(厳密には知らない)の照明事情を考えると、ロウソクも贅沢品で日没がすなわち活動を終えるタイミングというのは想像できる。その日の始まりに贅沢な照明を灯して祝うシーンはなにやらほっこりする。

 

ここで想ったのは、時代によって暦が違うという恣意性。暦に合わせて生きるのは当然だが、内心はこの時計に同期しなくても良い。もっとも長く過ごした恋人さんは出逢った頃かなりの不眠傾向で、日付に一日を合わすのではなくて、便宜的に日の出を一日の始まりとしているというモノサシがあって、この独自性に惹かれたのを思い出す。

 

時間は便宜上の道具概念でしかない。

厳密に捉えるなら標高が低いところは流れが遅くて高いところは早くなる(らしい)。

 

主観にも標高はあるのだろうか。

 

 

ところで。

 

浮かれた気持ちもやや落ち着いた。土曜日に東京に行くとでき過ぎ世界線なのではという疑義から、全然関係なく近場の古墳とかどこか水墨画が見られる所に行っても良きなとなっている。

 

ここで、この前読んだ「毎日10分でスピード脳になる」という啓発めいた本。ただ、この本はこれをすれば良いというのが全然簡単ではなく、主観上の時間を圧縮するみたいな話。外食に行ったときにメニュー全体を一目で見て、即断するようにする。そのとき、全メニューを食べている自分の未来を具体的に考える、というような感じ。未来を考えるときに、そこに居る自分の感情を先取りすると言えば良いのかな。僕は基本的に何食べても美味しいからあまり運用できない。外食もしないし。

 

ただ、でき過ぎ世界線の思考はまさにこれっぽい。演劇の中身もどういうやり取りが行われるかも未知だが、その時空に居る自分は滅茶苦茶楽しんでいることは既知。

 

人は未来を想像することができるのだからそこにおける具体的な感情も未来のものとして想像できるはず。感情は現実(いまここ)に付属しているという観念を取っ払えば。

 

この辺りの延長に「思考の現実化」というのがあるかもしれない。

 

これは僕が現実的に何かになるという実践をしてみないと実証されないか。

まぁのちのち。

 

 

 

そういえば、はてなブログの記事数が本日分でちょうど500になる。なんという無為の積み重ね。徳より業が積まれているような。何文字だ、1日2000文字として、かける500で10に0が5つ、え。100万文字。もっとすることあったのでは。

 

いや、あえて自分で作った時間。個人的にはこの時間は必須だったのだろうなとは思う。書くことと読むことは連動していて、その分世界が鮮明になっている。読んでいる人の記事の更新では中3、4日でも早くて素晴らしいと思う。僕の基準は星人(月)のもので、「よそはよそ、うちはうち。」これでも別に更新を義務としていない自由な動き。

 

義務でないから勝手に続く。自分の為には書いていないという感覚。

 

僕がこういうやり方だと文字が尽きないというだけであって、人にはそれぞれのやり方があるはず。人のやり方を否定する暇がない。

 

 

この文脈でちょっと人間関係のことについて考える。

自己評価として僕は無知なのだが、これって、関係の上で相手の土俵に乗っているからだよなとふと想う。相手の中の既知は僕の中では未知。僕は相手を自分の既知に巻き込まないようにしているのでは、とか。だから、文章では身動きが取り易い。

 

でも、これは現実的なところでも勝手な縛りプレイであって、相手の中にある僕像を気にしている暇はないのではという気がしてくる。好意は気になるで良いが、変な風に思われることを気にするのは無駄なエネルギー。

 

変はもはや仕方ない(笑)。

 

ひとりで充分楽しいから誰かが自分にとって有用かどうかみたいな指標で人を見ていない。近くなった人の価値観に付き合って共依存みたいなこともしてみたが、するべきことではなかったな。もともとこういう目で生きていたし、くもっていただけ。

 

世界に対してなにも求めていないし、何も与えられてない。

感謝は義務ではなく勝手に嬉しさを感じること。

 

で、良かった。

 

ずっと余生みたいな感覚があったのはこういうことなのか。

やっとここから。

 

 

やれやれ。

 

命の尊さも、恣意的に区切られている。

人間が捉えている時間の始まりから終わりまでという本で、どんな生物の起源も単細胞生物由来で同じメカニズムで動いているという話があった。社会人類学では、聖書の記述と黒人に対する生理的嫌悪感をどうするかが苦心されたとかも。

 

生物を殺して食べていることに対する感謝とか罪悪感も真理ではなく恣意で、したいならすれば良いというくらいで捉えるようなもの。エネルギー保存の法則からすれば、ある物質が滅んでもエネルギーが移動するだけになる。

 

要は、人の個人的な自己観も、したいからそうしているという節があるに違いない。

そんなこと誰も決めてないし。

 

こういったエネルギーの移動という、しがみついている間に終わる時間の流れの中で、同じような周回軌道線上に存在している人はやはり気になるところ。

 

礼儀とか要らん。

 

最後らへん変なことになっているが、僕はこんな野郎です。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。