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夢の情報量が多い。今回はミステリーていすと。カードにそれぞれ暗号文があり、カード自体の位置も組み合わせると六芒星になるという手の込みよう。暗号文は最近漫画アプリで広告が出てくる新種のナンプレを下敷きに、そこに文字を当てるという感じだった。無意識は無軌道。

 

現実生活としての仕事は通常営業。腕毛がすっきりした分無防備感が増して悪影響だったのかと要らぬ心配。相変わらずはとぽっぽが電線に停まっている。カラスの方が重いのだろうが、フォルムに重量感があってちょっと不安になる。

 

という、自分の感じを観測していると、何かしらの不安感がうごめいていた。漠然とし過ぎていて、特に言語化できるものではなく、言語化しようとすると自分にとって都合の良い不安感が顕在化する。

 

例えば。

 

「ほんとうの言葉は恥ずかしくて無防備なものだ」

 

だから人はそれっぽくオブラートに包んだり、言い回しを曖昧にしたりしてほんとうの自分の言葉を隠す。僕は自発的にそういうことをやめようとしているため、自分のほんとうの言葉は人に読め得る水準なのかという不安感。役に立つとか立たないとかはどうでも良いのだが、意味がない文章を読むのは時間の無駄だと思われる。ここでいう意味は意義でも意図でもない、文意という意味。ややこしや。

 

まぁ、新しいことをしようとしている不安でもあるのか。これはちょっと後回し。

 

もう1つが宵顔さん。

 

私信でほんとの言葉しか書いてないのに大丈夫な訳がないという不安。いっそのこと、早くこの関係が終われば良いとさえ。心地よさすら感じてしまっている自分は頭がおかしい。これも、ここが何も依拠できる前例がない関係だからによる。こんなのいつまで続く訳ないと常々思いつつ、3年くらい経ってしまった。

 

そういえば、この時間経過について。仕事で来年のカレンダーが配られてもう1年経ったのか、早いなみたいにひとしきり盛り上がったのだが、時間は物体ではなく概念であって、人が社会を構築できるようになったのは、時間が体感と離れた共通の概念として発明されたからなのだろうな。

 

社会的(法的)ルールは時的概念が共通項でないと成り立たない。定時とか納期とか利息とかクレカの後払いとか。権利義務の観念自体が、意識的行動といまを引き離すことで存在される。

 

別に高尚な哲学的なことではなく単純に時間経過って、どの時点と時点を測るかくらいの相対的なものでしかない。今年の始まりと今の10月1日を自分の過ごしたうん年でと比べればそりゃ早いに違いない。僕の測り方だと、あの日からまだ1週間も経ってないのか、おそっ。3年経過しても想いが経年劣化しないのも変、となる。

 

物理学の本で、無重力の空間でふわふわ浮かんでいるとき、それが動いているのか止まっているのかは物理的に観測できないというのがあった。僕の不安感はこの浮遊感と近いのかもしれない。

 

経年で感性とか記憶力とか集中力が衰えるというのは自分ではない人の経年でしかなく、別にこういうよく分からない、決まっているっぽい「時間」の中に生きる必要もない。

 

日本の民主主義は「空気」だという「難しい天皇制」。たしかに。僕の人生上、きちんと話し合って誰かと何かを決めたことはない。きちんと話し合うって相手に影響を受けても良い(思想を変革しうる)ことが前提にあると思うのだが。もちろんこれは民主主義ではない。

 

民主主義の定義をきちんと述べられるオトナがどれくらい居るのか分からないし、民主主義自体も色々定義があるらしい。誤解がありそうなのは、これが政治的ルールの一種であって、もともと見解が相違する多数人の妥協点というか落としどころを探る手法であって、民主主義だから何かより良いものが生まれるということではないということ。

 

多数決が善というやり方はいっぱい経験してきたが、多数派に対して善の世界ってはみ出し者にとっては地獄でしかない。椅子取りゲームみたいだなとずっと思っている。

 

僕は自分を守るために何処かに椅子を取るということはしないで良くなってきているな。動けばその分同時に位置できないという意味で場所をとるが、居座るということはあんまりしないつもり。

 

なんの話だっけ。

 

そうそう、Webサイト開設。帰ってからいくつか記事を探ってみた。なるほど、レンタルサーバーとの契約と、ドメインの取得が必要なのか。レンタルサーバーの方は、ほんとはここを選んで欲しいという意図で書かれている宣伝な感じだから、えいやーで良い。語呂的にさくらなんとかにしようか。

 

画像とか動画も貼りまくる予定はないから、容量もそんなに要らない。

 

ここで、文字情報についてちょっと考えた。文字情報ってデジタルでは単なるテキストデータだから、デジタルの情報移動では量がめちゃくちゃ少なくて済む。ただ、個人的には文字情報の方がアナログ的にデータ量として半端ない。この齟齬はなんだろうな。

 

イメージとしては、文字情報は圧縮されているからデータ量が少ないのが、それを解凍して受け手の方で再展開すると、画像も動画も及ばないくらいの情報量がある。

 

Kindleの新刊で集中力の本を読み始めたのだが、人が現実の世界において注意できる情報はほとんどないとのこと。ここからしても、データ量が多ければ多いほど、人は自分が取り入れられる情報しか意識できなくなる。

 

この意味で、文字情報は人が自分できちんと意識できる部分でしかない。それが良い。

読み手の解凍ソフトによるという無軌道性。

 

 

ちょっと戻って、ドメインはえいやーで決めるのははばかられる。

ちゃんと一見して分かるように設定すべきだとどのサイトにも書かれていた。目的が特定できるようにと。宵顔さんだと、自己紹介というか自己表現になっている。最後がnetになっているということは、検索性はあまり加味してないのか。

 

ドメインの話、何周かしているネットワーク関連の本でちょうど読んでいた部分で、そういうことなのだろうな。検索性を高める程、お金がかかるとはなかなか理に適っている。

 

僕としてはドメインはなるべく一見して何の為なのか分からない方が良い。無為の為にたゆたわせるのだから。物理的な僕とは全然繋がらない方が良い。

 

まぁこういうのはやってみてからだな。

 

こういうやってみてからというモノサシになれたのは、僕の経年で言えばごくごく最近。

 

もともと搭載されていた価値基準が随分と更新されてしまった。

だからこそ、古典的な本が読めるようになったとも言える。

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。