尺度

 

 

二度寝でうつらうつらしている時、夢とうつつの狭間で遥か高いところ(飛行機とか)からパラシュートもない状況で落ちたらどうなるのかというシミュレーションをしていた。高所は苦手めだから足ががくがくする。

 

確実に現世からはご退場だが、たぶん数分の猶予があるはず。意識が飛んでしまえばただの物体の落下だが、飛ばなかったらどうなるのだろうな。恐怖のあまり色々と漏らしつつ、走馬灯のような時間を想うのだろう。

 

覚醒して想った。人生も時間の終わりを最終地点にした方向と速度が違うだけの落下と言えなくもない。意識を飛ばした方が楽なのかも。僕は体と心を動かして遊泳したいところ。

 

 

さておき。

 

主観的にほとんど何も考えずぼーっと生きているなと想う。特に目的とか向上心とか持ち合わせている訳でもなく、人生で遊んでいるだけ。時間の区分けはふと我に返ったとき今がいつかを把握する上では大事。通勤途中の歩道橋を歩いているとき今日が何月何日かがふと把握された。

 

ただ、正確に調律された時計という道具が発明される前の人類は、もっと時点に対する共通認識が曖昧だった。1日に分単位の区分けもなくて、ざっくり。それでも生き延びてきたのだから、時点の把握は生きる上で必須とはいえない。

 

もっとおおまかな季節の流れ。日本には四季があるから巡りに敏感だとしても、雨季と乾季しかないところだともっと漠然としていたのだろうなと想像する。西暦という共通の時間尺度は便利だったのだろうな。弊害として時間は一方通行に流れるみたいな一般的な感覚が醸成されて、ニュートンより後の時間の科学的解釈に追いつけなくなった。

 

時間が終末に向かうという観念ってキリスト教の宗教観だとどこかで読んだ気がしないでもない。知らんけど。

 

 

考えてはいないのだが、発想が無軌道に頻発する。心理的安全の確保って、思い付いたことを否定してくる人が居ないということで、この否定してくる人の最上位には自分が鎮座する。

 

僕はこれを感じてはいけない人に抱いているのだが、別の話。

 

 

フラニーとズーイ」は俗世と宗教的祈りの対比の様相。ただ、ズーイはフラニーが祈りに傾注していることに対して、俗世で財産を集めることと、祈ることで何か積める気になることは同じなのではないかということを語る。

 

継続はほんとうに力なのかと想起。力を持つとしたら、継続そのものではなく継続から掴み取れた、抽出されたその先であるべき。人生もそう。この精神性をお休みしていた15年程はなかなかの暗黒時代だが、時間が伸縮して螺旋を描く概念だとすると、気付くことに早い遅いはない。

 

僕は僕のことを凄いと評する人がとても苦手なのだが、ここらへんにある。自分とは別に単純に凄いなら問題はないが、自分にできないことをしていることに対してだとやめてくれと思う。何も語れなくなる。

 

 

今の仕事は通話だけで疎通を取りつつ教える仕事なのだが、言葉の扱いについてふと想った。

 

自分が伝わらないことを、言葉に丸投げしてないか。

 

言葉を正確に扱おうともしてないのに、話が通じないとか伝わらないとかと言葉に他責にする。ここでいう正確性は、お互いが共通項を探るという意味であって主観的な自分を正確に言葉に出すということではない。主観的な世界観の言葉はあくまで自分の辞書による。

 

自分の辞書と言えば、僕の辞書には怠惰とかズボラはなくなった。こういうのって人から言われる言葉であって自称するものではない。ここはどうでも良い。

 

思ったのは、人って通話ですら人の言葉を聞いている訳ではないということ。

発せられた言葉の中にある意味みたいなものを聴覚以外も総動員して捉えている。

 

発話される言葉を文字通り受け取ってはいけないというのは時系列で学習すること。個人的に言うと、母親が語る字面は全く額面通りに受け取れない。だいぶ丸くなって素直になってきたと思うけど。

 

裁判になぞらえていうと、言葉はあくまで証拠の1つでしかない。

人は人をもっと全体的に捉えている、という知見。

 

印象は操作できないという何処かで読んだのはまさにその通りで、発話をどう操作しても人格は漏れ出る。言葉を問題にしているとき、あくまで自分発した言葉と自分がどう受け取ったかしか見てないのは、やり取りとは言えないような。

 

別にこれはこれで良いと思う。

でも、あんまり楽しくはない。

 

これは文章に持ってきたとしても同じことなのではという発展。

人は基本的に読みたいように読むのであって、書き手のことはどうでも良い。これは書き手にも言えることであって、全然他人が登場しないというか、他人を自分と等価に揺れ動く存在として捉えていない。

 

まぁ、文章も自分が主役になれる媒体だからそういうのはアリなのか。

 

ただ、僕はナカのことを綴っていても、自分の存在を模写しているとは思えない。コンテンツないし虚構ということではなく、言葉では届かないだろうという感じ。

 

こういう視点だから、人が何を書いていても背景込みで読もうとする。

このはっきり読めないのが人の存在の本質っぽい。

 

 

本質は何かを継続したくらいでは辿りつけなくて、ちゃんと自分と向き合ってから。

 

 

個人的な世界なのだけど、自分がちゃんとできていれば人に対して負の感情を抱かなりつつある。負の感情って自分の負の要素を世界に転嫁しているだけだった。自分ができていることを他人ができるべきとは思えない。

 

僕が存在として嬉しいのは、僕を当人の存在と連動させずに人として見てくれること。

知らないスキは見に行ってたまに越境するが。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

また明日。

 

良い夢を。