耳たぶが大きい人の気分で生きると6万いくつか分の1のロングフリーズに当たる。
いやいや、この自分で在れることは、歴史上の総人口分の1ですから万単位どころではない。誰だって同じく固有という説と、自由になれるかどうかという意味では少し違うという説と。
有給は何をしていても給料が発生している日。
昨日の日記をお休みしたのは、泥酔した訳ではない。寧ろ平日より酒量が少なくて、ただ寝ただけ。個人的に人は習慣からも自由になるべきという立場。主観的なエネルギーを使っていとか使うとかそういう範疇ではなく、そのときに何をやっているか意識できるかどうか。これがカテゴリーでしか言語化できないのであれば、きちんとその今を生きているのかが定かではないから、なんとも言えない。
たしかに、自分が生きていることを言語で説明するのはとても難しい。だって、言葉にはそういう完全な個人の世界を表現できる語彙がない。表現ができないと思っている人の中に言葉をいっぱい集めればそのうち表現できるようになるという向上心を持っているかもしれないし、人からそういうアドバイスをされるかもしれないけど、別に世界自体は言語でできていないし、貴方自体も然り。
僕はパートナーとして落第なのかもしれない。満月さんに私の好きなところは何処ですかと問われても、特に言語化できることは無いのだよ。強いて言えば存在そのものだし、当たり前の世界をあえて言葉化するのはむずい。満月さんはまともな人だから行動とか言葉ベースで世界を捉えているから、言葉が大事。歴史上その言葉が現実として叶ったのはともかく。
僕は自分の言語群を自分から離れた作品とはできない節。言葉は動きでしかない。
と思って来たのは、僕が子供時代だったときに大人が語っていた言葉とか、その後の人生劇場でも、人は基本的に一般論みたいな形式で自分のことしか語っていないということに気付いたから。
こういう意味では、僕は割と人でなし。
ある規範の中でそう動かなきゃいけないという劇場においてどれだけ親切だろうが、投資してようが、その世界観における僕の立ち位置は僕そのものではないから、割と知ったこっちゃない。
でも、人って本来こういう感じなのでは。
ここに至るために、教養が必要だとしたら学歴主義になるが、選民思想ではなく、寧ろあんまり現実生活上手くいっていない人の方が他人をきちんと把握できる素養があるのではとか、お勉強で届く境地ではないとか。もちろん宗教でもスピリチュアルでもない。
やれやれ。
自分の世界であくせくしていてもパートナーを得て社会的になんとなく場所を取って安泰になれるのが近現代の世界観。普通の人は現代社会の何かのレールに乗ることが安泰だという世界観。パートナーが居なくても、最終的には居て欲しい世界。
早めのクリスマスパーティ。
ケーキを食べます。
どれだけ不安になっても花が綺麗だと感じられれば精神は病んで居ないというmissing。
たしかに、自然の移ろいに何も感じられない時期はあったけども、今後はなさそう。
満月さんは、僕に折々言葉での確証を求めてくるのだが、ここをスルーしても、無意識的に大丈夫そうだから継続はできそう。今や、ほんとうに僕の言動を求めているのかも分からない。
文字数は相変わらず少ないな。
そもそも世界が言葉で構築されていないからこそ世界を楽しめる訳で、言葉にがんじがらめされた世界において、自由な言葉なぞない。
何の話だろうな。
おやすみなさい。
ケーキ食べます。
良い夢を。